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城下町東の玄関口−歴史の中で子育て(1)

本紙掲載日:2020-08-31
6面

延岡市紺屋町、瀬之口町、日の出町、昭和町

 延岡市の五ケ瀬川を隔てて北側に位置する紺屋町、瀬之口町、日の出町、昭和町を記者が歩いた。

 このうち紺屋町は江戸時代から続く延岡城下七町(ななちょう)の一つ。延岡城(現在の城山)を築いた高橋元種が改易された後、有馬直純の時代につくられた。

 瀬之口町、日の出町、昭和町は旧東臼杵郡岡富村に属する。1930(昭和5)年に延岡町と合併。33年の市制施行で延岡市岡富となり、50年代にそれぞれの町名となった。

 住宅が多く立ち並ぶ中に、歴史ある場所や児童公園、橋など多くの人が利用する公共施設が点在する。主な場所を紹介する。

(※七町は、南町、中町、北町、元町、紺屋町、博労町、柳沢町)


 一帯は児童公園が充実しており、子どもが多かったことが分かる。日の出第三児童公園は、日の出町主催の「供養盆踊り大会」「地蔵尊祭り」などの会場となる。地元の「日の出おやじ会」のメンバーが中心となって企画し、店が並び、イベントが開かれる。


◆活気あふれた「十貫」−昭和町
大正から昭和40年代の船着き場

 昭和町3丁目の五ケ瀬川と祝子川が合流する先端に50年ほど前まで、「十貫(じっかん)」と呼ばれる船着き場があった。

 大正の初め頃、草原と畑だけだった荒れ地にカーバイド会社ができ、東海や方財との間に渡し船が往復するようになったことが始まり。

 昭和初期に渡し船が動力船(ポンポン船)になると、「ポン、ポン、ポン」という破裂音が遠くまで聞こえた(小嶋政一郎著「延岡百景今と昔」より)。日豊汽船が北浦や島野浦方面の連絡船の拠点にすると、さらに活気づいた。

 県教職員互助会の「ふるさとのみち宮崎の街道」によると、魚の水揚げの船、方財、島野浦、北浦へ生活物資を輸送する船、まきなどを運んでくる船、それらに関わる人々の喧騒(けんそう)、中川原の旭化成レーヨン工場火力発電用の石炭を陸揚げする船、それを運搬するトロッコ列車の音と、現在からは想像できない活力のあふれた船着き場だったという。

 しかし戦後、大武町に延岡港の整備が進められると、汽船の発着場も移動し、十貫は船着き場としての役目を終えた。地名も昭和町に変わった。


◆毎朝響く競り声−昭和町
延岡魚市場間もなく70年

 毎朝7時から、競り人の威勢のいい声が響くのは「延岡魚市場」。1952年に昭和町2丁目の現在地に移転して約70年、県北地区の台所に新鮮な魚介類を提供している。

 同社の資料によると、前身は「延岡鮮魚介集荷販売組合」。47年11月、紺屋町で開業した。

 市場には、北浦、島野浦、浦城などの地物はもちろん、全国各地から鮮魚が集まる。そのため、真夜中も荷受けをしている。

 競りが始まる頃には、小アジからマグロまで大小の魚がずらりと並び、〃競り棒〃と呼ばれる長い棒を持った競り人の独特の声が響く。競り人は競りにかけている魚を棒で指しながら、仲買人が指で示す値段を読み上げて値段を競わせる。

 市内で唯一の魚市場だからこそ、近海で取れた大物が運び込まれることも。昨年は5月に相次いで捕れた160キロ、200キロ超えのクロマグロが競りにかけられ、話題になった。

 鮮魚の需要が増す盆休みや正月前、5月の大型連休前は特に忙しい。現在、年間で約2千トンの入荷量があるという。仲買人の競り落とした魚が、市内をはじめ、県北各地の小売店に並び、飲食店で調理される。


◆疫病から住民を守った−昭和町、川原崎町
二つの町の境に「じっそうさん」

 川原崎町との境の昭和町3丁目にある川原崎昭和公民館敷地内に、「じっそうさん」と親しみを込めて呼ばれてきた「地創法院疫神之宮」がある。

 同所は、昔から川原崎地区に住む人が共同で管理する土地で、広場一帯は約760平方メートル。地元でまとめられた資料によると、終戦までは杉の大木やセンダンが茂る大きな森だったという。その一角に、現在よりも大きな、そぎぶき屋根の建物があった。

 言い伝えでは昔、地創法院伝道と、妹の静之宮(または静香)のきょうだいが上方から来て住みついた。しかし、追っ手が来て、伝道はこの森の中で自害した。静之宮は連れ去られ、現在の浜砂町で生涯を閉じたという。

 一時期、工事のために宮を別の場所に移したことがあったが、人だまが出たり、疫病がはやったりしたという。元の場所に戻すと疫病は治まり、その後、近くで病がはやっても、同地区ははやらなかったことから「疫病予防の神様」として祭られるようになった。

 以前は夏と秋の2回、行事があった。旧暦の6月1日は「お護符もらい」。流行病にかからないためのお守りとして、白ご飯をイモガラの葉で包んだものを子どもたちがもらった。

 伝道の命日に当たる旧暦9月16日は祭礼日。子どもたちが庭を掃除したり、ご神灯を立てたりして準備し、夜は布団を持ち込んで寝泊まりすることが許された。参拝者が来なくなった時刻に、上級生がお供え物を下ろして、皆に配ったという。

 「川原崎土地共有」の会長、吉田量基さん(72)は幼少期、「あぶら銭」といってお菓子を買うためのお金を各家庭を回って集め、祭りの準備をしたことを覚えている。各家庭から団子やおはぎなどを持ち寄って供え、半分は皆で分けて持ち帰ったという。

 時代の流れで、子どもたち中心の祭りではなくなったが、現在も旧暦9月16日に、今山八幡宮の神職を招いて神事を行っている。川原崎町に続く伝統行事だが、宮の所在地の昭和町からも参加している。



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