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「稀代の為政者甲斐奎太郎の実像」を出版

本紙掲載日:2022-09-08
1面

顕彰する会の甲斐盛豊さん−延岡市小峰町

◆旧南方村の発展に尽力

 岩熊井堰(いぜき)の大改修など旧南方村の発展に尽くした「甲斐奎太郎翁の遺徳を顕彰する会」の代表、甲斐盛豊さん(74)=延岡市小峰町=が、「稀代の為政者甲斐奎太郎の実像」を出版した。A5判、一部カラーの324ページ。功績などを刻んだ石碑、奎太郎にちなむ南方地区の史跡などを紹介。また、まとめた年表や戦前に出版された南方村史を全ページ写真にして掲載した。

 奎太郎は1874(明治7)年、南方村永田(現在の延岡市松山町)生まれ。1921(大正10)年1月に東臼杵郡郡会議員、23(同12)年3月に南方村村長に就任し41(昭和16)年に退任するまで村長を18年間務めた。その間、県議会議員も務め、農業、林業、河川や道路などの整備、教育文化など幅広い分野で実績を残した。

 岩熊井堰は28(同3)年に県議会で改修が承認されたが、奎太郎が政治的対立を乗り越えて予算を成立させたという。

 31(同6)年に野田・大貫水路のサイホン工事を完成させ、翌年には小峰に耕地整理組合を組織して組合長に就任。岩熊井堰は33(同8)年に大改修を終えた。野田井堰、大貫井堰用水路とも水源を岩熊井堰とすることになり、南方地区と岡富地区の一部という広い範囲でかんがいの恩恵にあずかることになった。

 このほか、懸案だった小学校の統合問題についても、24(同13)年に合併を実現させた。当時、三つの区立小学校があり、地区の対立を生むほどの難問になっていたが、南方尋常高等小学校に統合させ、さらには学校費負担も軽減させた。

 学校統合と区有林の統合の二つの問題解決について村民はとても喜び、祝賀会、懇親会を開催。懇親会には1200余人が参加するほど盛り上がったという。

 村民が対立していた問題を解決したことで、南方村に協力一致の美風、団結心を育むことができたとたたえられたという。

 本を発刊した甲斐さんは2016年11月、西階地区青少年育成連絡協議会が主催した「南方地区探索会」のガイドとして、天下町にある「奎太郎翁像」前で地元の小中学生に功績を解説。その時に話をしながら「奎太郎翁についてもっと深く知り、地域の子どもたちに伝える必要がある」と感じ、文献を探したという。

 すると古書店で旧南方村の公文書「南方村村史五十年」を発見。石碑や構造物など具体的な遺跡が地区内にあることを知り、自ら訪ね歩いて再検証した。

 1929(昭和4)年に細見町に建てられた「孟宗竹林造成記念碑」には村長として奎太郎翁の名が刻まれていることから、甲斐さんは「この時の竹林造成が現在に至る、JA延岡のブランド野菜・金の筍(たけのこ)につながっているのではないか」と指摘。

 また、高野町の行縢川にある田原耕地整理組合の行縢川井堰改修記念碑(32〈昭和7〉年建立)には組合長として奎太郎の名前が刻まれている。記念碑は木造の井堰をコンクリートに改修した際のもので、工事のために組合が組織されたことが記されている。

 「天下町で続いている『古墳まつり』を始めたのも奎太郎翁。敬老会も吉野町で全国に先駆けて開催しており、吉野町だけでなく、南方のほかの地区でも開催されていた可能性がある」と甲斐さん。

 「私も南方の人間としての誇りがありますし、南方の人間なら奎太郎翁のことは知っておいてほしい。それを記録として残さなければと思いました。生い立ちや功績のほか、1955(昭和30)年に延岡市と合併した旧南方村の歴史を知ることのできる内容としました。旧南方村のことや素晴らしい功績を後世に語り継ぐ一助として、未来を担う子どもたちの郷土愛、誇りを育むきっかけになれば」

 また、「バランス良く村政運営に携わり、百年先の南方の繁栄を見据えた為政者ではなかったかという思いです」と話している。

 今回300冊を印刷して図書館や学校、史談会、取材に協力してくれた人たちに寄贈した。まだ若干の余裕がある。

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