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本社で職場体験−平和祈念資料展を取材して

本紙掲載日:2016-06-23
6面
第13回平和祈念資料展を取材する中島君と堂薗さん(延岡市立図書館内)

戦争が小学生や女学生にもたらした苦しみとは

 延岡市東海中学校2年の中島巧登君と、堂薗愛結(あゆ)さんは22、23の両日、夕刊デイリー新聞社で職場体験を行いました。初日は延岡市立図書館で7月10日まで開かれている「第13回平和祈念資料展」を取材しました。記者を体験した2人の記事を紹介します。


◆「つらい思いした子どもたち」東海中学校2年・中島巧登

 今月18日から始まった第13回平和祈念資料展を取材しました。そこでは、子どもが先生に書いた手紙や、18歳で戦死した少年戦車兵などの資料が展示されていました。

 その中で気になる展示がありました。石山拓子さんの「父と拓子さん以外の家族は日本の土を踏むことはなかった」という部分です。なぜ、石山さんとお父さん以外の家族は日本に帰れなかったのかを知り、伝えたいと思いました。

 戦時中、満州に住んでいた石山さんは、お母さんと妹、弟たちと敗戦の混乱に巻き込まれていきます。小学校3年生で8歳のときに家族が1人、また1人と死んでいき、最後には家族が全員死んで自分1人だけになりました。

 戦争が終わったとき、石山さんたち満州に住む日本人は集合しました。そして最初の集合場所で集団自決。朝起きると煙に囲まれていました。このときに弟や妹が亡くなり、次の集合場所に着いたとき家族はもう、お母さんと弟と自分の3人だけになっていました。そこで弟が病死。

 日本に近い港に着きましたが、その1カ月半後くらいにお母さんも亡くなります。1人だけになってしまった石山さんはその後、孤児の収容所に入り、そこから日本に帰って来ました。

 まだ小さい子どもが、家族を失い、1人で日本に帰ってくるのはつらかったと思います。それは戦争が起き、子どもも巻き込まれてしまったからです。戦争をしてはいけないと改めて思いました。

 また僕は、今月19日にあった古舘豊さんによる展示資料の解説も聞きました。この中で池田知聡さんによる朗読も聞きました。その中に、終戦から4カ月後に、当時小学6年生だった生野洋子さんが書いた作文がありました。

 生野さんのお父さんは、日中戦争に参加した後、南郷村の村長に就任しましたが、2度目の召集令状が届きます。しかし、乗船した輸送船が米潜水艦の魚雷攻撃で撃沈し、戦死しました。

 生野さんの作文によると、終戦の次の日、生野さんが学校に行くと、皆黙って何か考えているようにぽかんとしていたそうです。

 先生が静かに「今から新しい日本を立て直すのは君たちである」。と話しました。その後、生野さんは次のようなことを考えて、作文に書いています。

 「本当に、日本が負けるとは夢にも思わなかった。早く、日本を建て直して、また元の一等国になろうと思う」

 この文章を読み、子どもも、大人も、日本が負けたことにショックを受けたことが分かりました。その後、力を合わせて日本を立て直そうと思ったから、今の日本があるのだと思いました。


◆「戦争の時代の子どもは何を」東海中学校2年・堂薗愛結

 延岡市立図書館で、第13回平和祈念資料展が開かれています。この展覧会を取材して私が読者の皆さんに伝えたいことは、小学生や女学生たちが戦争の時代に何をしていたかということです。

 黒木民雄さんが小学生の時の体験を書いた資料がありました。黒木さんは、延岡小学校に通っていました。延岡小学校は当時は市役所の辺りで、今は大貫町にあります。

 黒木さんが、2年生になると延岡尋常小学校から延岡国民学校初等科に変わりました。3年生になると米や衣料品が配給になり生活が苦しくなりました。しかし、「ぜいたくは敵だ。欲しがりません、勝つまでは」と我慢して戦争に協力しました。

 学校で習うことは、すべて戦争のことになり、立派な兵隊になりたいと思い、遊びは戦争ごっこをするようになります。4年生では、兵隊になるための勉強が増えて、敵機の爆音を聞き分ける訓練や手旗信号・モールス信号の練習をするようになりました。

 5年生になると、食料も衣類も無くなりました。学校にもはだしで行くようになりました。6年生になると、延岡でも時限爆弾が投下されて戦争が身近に感じるようになりました。6月28日の夜中に焼夷(しょうい)弾が雨のように落ちてきて、延岡は一夜にして焼き払われ、延岡小学校も焼けてしまいました。

 また、今の岡富中学校がある場所には延岡高等女学校がありました。女学生たちは、救護活動や風船爆弾(気球爆弾)を作ったりしていました。その体験を書いた資料が展示してありました。

 爆弾を作る工場は、食料が少なく、とても過酷な状態でした。女学生の中には、風船爆弾の材料になるこんにゃく糊(のり)を食べてしまう人もいたそうです。

 この資料展を見て、子どもたちも戦争のために働いていることがよく分かりました。

 昔と今を比べると日本は平和になりました。海外ではまだ戦争している国があります。戦争を無くすのは簡単なことではないと思うけど、これから先、戦争が無くなり平和な世界になってほしいです。今、平和であることに感謝していきたいです。

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