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北川町ゆかりの偉人「小倉処平を有名にしたい」

本紙掲載日:2021-03-11
6面

北川小6年生が演劇、すごろくなどを発表

 延岡市立北川小学校(長友久満校長、118人)の6年生26人は2月24日、同校体育館で、地元北川町ゆかりの偉人小倉処平(おぐら・しょへい)について発表会を行った。保護者らが見守る中、小倉の功績や生涯を演劇、すごろく、ポスターパネル、CMにしてグループごとに披露した。

◆小村寿太郎を育てた教育者

 小倉処平は、幕末から明治にかけて、後に外交官として活躍する小村寿太郎を育てるなど人材育成や教育事業に多大な功績を残した。西南戦争で西郷隆盛率いる薩摩軍に参加。和田越の戦いで負傷し、志半ばで北川町で自刃した。同町には「小倉処平の加療の地を守る記念堂」が建てられ、地域住民がその功績を伝承している。

 児童は、修学旅行で鹿児島に行き西郷隆盛について学ぶ予定だったが、新型コロナウイルスの影響で旅行先が県内に変更されたため、地元にゆかりのある小倉処平に焦点を当てることに決めた。

 人物としての魅力を広く発信したいと、「小倉処平を有名にしようプロジェクト」と名付け、総合学習の時間を使い約半年かけて準備。地元「小倉処平を語り継ぐ会」の安藤重徳会長(74)を招いて講演を聞き、修学旅行では、小倉の出身地の飫肥(日南市)を巡り理解を深めた。

 発表会では、グループごとに趣向を凝らした「演劇」「遊びながら学べる処平すごろく」「ポスターパネル」「小倉の偉業を紹介するCM」を発表した。

 このうち、小倉の生涯を描いた演劇「永遠の英雄」は、日南市教育委員会が作成した紙芝居を参考に、台本を独自に書いて制作。激動の時代を駆け抜けた小倉や周りの人々を、児童が生き生きと演じた。練習の成果を見事に発揮した熱演に、会場の保護者から大きな拍手が送られた。

 安藤会長は講評で「皆さんの感性の豊かさに感心した。アイデアが素晴らしく参考になった。小倉処平もきっと喜んでいると思います」と褒めたたえた。

 演劇でナレーターを務めた茂亜樹さん(12)は「教科書に載っている小村寿太郎を育てたことがすごいと思った。小倉処平の名前を、もっと多くの人に広めたい」。CMに参加した小西舜さん(同)は「修学旅行や学習で詳しく知ることができた。あまり世間に知られていないので、小倉処平の活躍を知ってほしい」と話した。

【小倉処平】1846年、飫肥(現日南市)で生まれた。飫肥藩の命で京都に行き、藩の外交活動を任されるなど活躍。藩校「振徳堂」の句読師(くとうし、読み書きを教える人)として、後に外交官として世界に羽ばたいた小村寿太郎を指導した。各藩から推薦を受けた優秀な若者を大学南校(東京大学の前身の一つ)へ進学させる貢進生の制度をつくるなど人材育成や教育事業に力を入れた。しかし、77年に西南戦争が始まると、飫肥隊を率いて薩摩軍に参戦。「飫肥西郷」と呼ばれるにふさわしい活躍を見せたが、和田越の戦いで足を負傷し、北川町で自決した。32歳だった。

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