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軍需工場で働いた女学生

本紙掲載日:2020-08-14
6面
マルふ(風船爆弾)の製造をした延岡高等女学校専攻科の挺身(ていしん)隊。昭和20(1945)年3月、延岡に帰る前に城野の寮の前で撮影された

昭和60年40年ぶり再訪の手記

◆再び戦を繰り返すこと勿れ平和を希うこと切なり

太平洋戦争終盤に小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)で働いた延岡高等女学校の学生が戦後40年の昭和60(1985)年に現地を訪ねた際の文集が、延岡市恒富町の寺原八千代さん(92)から本社に提供されました。文集には4人の短歌と1人の手記が掲載されています。その内容を紹介します。(手記は読みやすいよう一部現代仮名遣いに改め、ふりがな、句読点などを補いました)

◆師と友と小倉を訪(とぶら)う−寺原八千代
 
  ただひたすらに勝利を信じ、われら三十六名、学窓より小倉陸軍造兵廠へ向かう。時昭和十九年晩秋。城野駅にて下車、寮へ向かう。

 芋畑と枯草と貧しき人々の住むバラックの立ち並ぶあたりに、わがすみかとなる寮はありたり。今ここにそのあとを尋ぬれど、その時の片鱗(へんりん)をも残さず、ただ城野の地名のみありたり。

 幾人ものひとに城野寮のありかを問いたれど杳(よう)としてさだかでなし。ただ一人、モノレールの城野駅舎の人、われらと同じ年格好の人なれば、ことの外なつかしがりて話さる。今の国鉄宿舎ビルのある辺りがそのあととか。ようやくにしてその地へ辿(たど)りつきぬ。

 高層宿舎ビル林立し、大道走り、頭上には高速道あり。昔をしのぶよすがとてなし。しばし佇(たたず)みて、在りし日をしのぶ。

 寒々とした陰うつな寮生活が想(おも)い出さる。その中にありて、わが心のうるおいとなりたる想い出あり。身をさす朝夕の目覚めに、スピーカーよりやさしく静かに流れ出(い)づる啄木の歌、三首。

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹(かに)とたはむる
砂山の砂に腹這(はらば)ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ

 そのメロディーと共に今も忘れ得ず。しばしの後、紫川へと歩を進む。寒風吹き、粉雪の舞う紫川のつつみを、軍歌や動員の歌などにて士気を鼓舞し、心にむち打ちながら、朝な夕なに通いたるも今は昔。夢にまで見たこのつつみに、今、師と友と共に立てり。永年の月日は川の流れのみを残して、四囲の様(さま)、わが目を疑うばかりに変容してあり。

 まさに百万都市の面目躍如として佇(たたず)めり。ありし日の乙女の血汐(ちしお)のたぎりを知るものとてついぞなし。

 更に歩を造兵廠あとへと運ぶ。さまざまなビルの立ち並び、昔日の影いづこにもとどめず。そのなかにありて円(まる)く高き古びた給水塔のみが昔のなごりをとどめおりたり。なつかしさひとしおなり。この広々とした廠の跡地のいづくにて、わが血を燃やしわが涙を汗を流して戦いしや。

 むなしき心わが胸に広がれり。

 今日は日の好(よ)きか。結婚式後の晴れ着姿の娘ら、三三五五興じ合えり。平和とは美しきものなり。のどかなるものなり。

 過ぎ去りし日も今は夢となりぬ。再び戦を繰り返すこと勿(なか)れ。戦とは悲しきもの、苦しきもの、忌まわしきもの、むごきものなり。再びかの轍(てつ)をふむこと勿れ。平和を希(ねが)うこと切なり。
・県立延岡高女講習科生三十六名。
・昭和十九年十一月十四日より(翌年)三月まで小倉陸軍造兵廠にてマルふ作戦に参加す。
・引率教師新小路在住西川志づ先生


【口語文】

 ただひたすらに勝利を信じ、私たち36人が学校から小倉陸軍造兵廠へ向かったのは昭和19(1944)年の晩秋。城野駅で下車し、寮へ向かった。芋畑と枯れ草、貧しい人たちが住むバラックの立ち並ぶ辺りに、私たちの寮はあった。

 今回の旅で「マルふ」の跡も訪ねたが、どちらも片鱗すらなく、あるのは「城野」の地名だけだった。

 何人もの方に城野寮の場所を聞いたが、定かではない。モノレールの城野駅舎の人は私たちと同じ年格好と思われ、とても懐かしがって話してくださった。今の国鉄宿舎ビルのある辺りが寮の跡だという。

 ようやく、その場所にたどり着いた。高層ビルが林立し、頭上には高速道がある。もはや昔をしのぶよすがはない。しばしたたずみ、在りし日をしのんだ。

 寒々とした陰うつな寮生活が思い出される。その中で、私の心の潤いとなる思い出がある。身を刺すような朝夕の目覚めにスピーカーから優しく静かに流れてきた石川啄木の歌3首。

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹(かに)とたはむる
砂山の砂に腹這(はらば)ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ

 そのメロディーと共に今も忘れられない。寒風吹き、粉雪の舞う紫川の堤防を、軍歌や「学徒動員の歌」などを歌って士気を鼓舞し、心にむち打ちながら朝な夕な造兵廠に通った。

 夢にまで見たその堤防に、今、師と友と共に立っている。長年の月日は川の流れのみを残し、四囲の様子は変容していた。まさに百万都市の面目躍如たる様相。在りし日の乙女の血潮のたぎりを知るものは、全くなかった。
さらに陸軍造兵廠跡に行ったが、さまざまなビルが立ち並び、昔日の面影はない。その中で、丸く高い古びた給水塔だけが昔の名残をとどめていた。懐かしさひとしお。

 広々とした廠の跡地のどこなのだろう、わが血を燃やし、わが涙を、汗を流して戦っていたのは。むなしい思いが胸に広がる。

 日が良いのか、結婚式後の晴着姿の娘さんたちが三々五々に興じ合っている。平和とは美しく、のどかなものだと思う。

 過ぎ去りし日も今は夢。再び戦を繰り返すな。

 戦とは悲しく、苦しく、忌まわしく、むごいもの。再び同じ轍を踏むな。平和を切に願う。


◆短歌・マルふ作戦の戦跡をたずねて(昭和六十年十一月三日)

◇引率教師西川志づ
乙女等の「マルフ」作りし場所いづこ今小春日を振袖のゆく
城野から紫川と訪ねきてせゝらぎ聞こえず陸橋の上に
城野から紫川と歩ききてわずかに残るかたむきし家

◇岩田郁子
四十年の思い出の地は跡もなく近代化せし造兵廠のあと
温めし思い出は今崩れゆく乙女の涙流せし土地かと
モノレールの下に佇み思い出の場所(とち)は何処と目を見張り居り
石垣にわずかに残る面影を手繰りてかなし戦いの日々
寒さに堪え空腹に泣き労働の酷しさも今は遠き想いに
師と共に苦労せし地を訪れど近代化せし地は感傷もなく
霜を踏み通いし道は何処なり四十年経て友と辿りぬ

◇田代タミ子
尋ねきし造兵廠のあとはなく新しき城に菊の香かおる
その昔(かみ)の戦いし日の面かげをわずかに残す低き家並み
ひもじさと寒さとつらき労働を耐えし友等も五十路の半ば
師と友と共に昔の地を尋ぬ平和の世なり人はさざめく

◇竹内愛子
造兵廠跡地を歩き探せども吾等の刻みし青春はなし
唯一の面影とどめし「紫川」頬なづる風遠き日に似し
今浦島高速道路にモノレール思い出の地は繁栄の町
華やげる振袖の娘等(こら)行き交えり「マルフ」造りし日々は遠き過去

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