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環境教育で土呂久を学ぶ

本紙掲載日:2022-11-28
8面
フィールドワークに参加した学生の質問に答える佐藤さん(右)
写真パネルを見学しながら史跡を巡る学生ら

南九州大生がフィールドワーク−高千穂

 県による大学生を対象とした環境教育「土呂久を学ぶフィールドワーク」が12、13日、高千穂町岩戸の土呂久地区であった。南九州大学環境園芸学部の3、4年生10人が参加。「誰もが安心して持続的に暮らせる地域づくりについて考える」をテーマに、かつて旧土呂久鉱山周辺で発生したヒ素公害(通称・土呂久公害)などについて理解を深めた。

 土呂久公害は1920年、同鉱山で製造が始まった亜ヒ酸に含まれるヒ素の影響で、炭鉱員や近隣住民に慢性ヒ素中毒症患者が多発した問題。閉山から9年後の71年、土呂久地区の児童の健康状態が優れないことに気付いた教員らの働きで明るみになり、73年、国の公害指定地域として認定された。

 当時の県知事が患者と鉱山会社の間で補償を仲介するも「一部の症状に対する補償」を不服とする患者らが宮崎地方裁判所へ提訴。全身の健康被害に対する補償を求めた。裁判は75年の第1陣(患者23人)、84年の第2陣(同18人)を経て最高裁判所まで持ち越されたが、生きている間の解決を願った原告側の要請で90年、和解が成立した。

 県によると、慢性ヒ素中毒症の認定者は215人。今年10月末時点での存命者は42人で、平均年齢は83歳となっている。

 フィールドワークは、問題提起から約50年がたち、関係者らの高齢化で歴史の風化が懸念されることなどから2017年以降、毎年実施。2日間にわたり、鉱山跡地の見学や同事業委託先のアジア砒(ひ)素ネットワーク(横田漠理事長)職員による講話、地元住民との交流などを行うもの。

 初日は土呂久公民館でオリエンテーションを行い、被害者と支援者が集会場にしていた「土呂久山荘」へ移動。認定患者の佐藤アヤさん(故人)を叔母に持ち、語り部として活動する佐藤慎市さん(70)=同町岩戸=が公害問題の概要などを説明した。

 その後、慎市さんの案内で紅葉シーズンを迎えた鉱山跡地を散策。原告代表として尽力した佐藤鶴江さんが法廷で訴え、墓に刻まれた碑文「たとえどんなに根治の見込はないと言われましても、生きていく権利があります。また、生きとうございます」や、当時の様子を撮影した写真パネルなどを見学しながら史跡を巡った。

 この日はまた、同ネットワーク職員が「土呂久とアジアのつながり」「労働災害と公害」と題して講話。2日目は、そのほかの要所見学や地元住民の自宅訪問、まとめ発表などを行ったという。

 参加した4年生の大村幹太さん(22)は「今でこそ美しい景色が広がる場所だが、慢性ヒ素中毒症で大勢が亡くなった過去を知ると心にくるものがある。園芸でも環境への視点は大切なので、今後の学びに生かしていければ」と感想。

 佐藤さんは「土呂久公害は終わった問題だが、世界中で日々、土呂久と同じようなことが起こり続けている。一過性のメリットにとらわれるのではなく、本質を見極めて判断する力を養ってほしい」と話した。

 土呂久地区は江戸時代後期から銀山として繁栄。明治時代以降にはヒ素を含む鉱石「硫ヒ鉄鉱」が見つかり、1920年、同鉱石を焙焼(ばいしょう)して、農薬や医薬品などの原料に使われる亜ヒ酸を製造(亜ヒ焼き)するようになった。

 33年までの人力による小規模経営から、スズを主産物として製造を拡大。亜ヒ焼きの煙で環境汚染が進む一方、地区内に映画館やテニスコートが作られるなど大いに栄えた。その後、休山期間を挟み55年に操業を再開したが、58年、主要坑道の大切坑で出水事故が発生、62年に閉山となった。

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