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秘密兵器を造った女学生

本紙掲載日:2020-08-14
3面
当時の思い出を語る寺原八千代さん
風船爆弾(延岡高校百年史より)

志願して小倉の軍需工場へ−延岡高等女学校専攻科の36人

 太平洋戦争終盤、延岡高等女学校専攻科の女学生36人は自ら軍需工場での労働を志願した。親元を離れ、寒風吹く北九州の小倉陸軍造兵廠(しょう)で製造を担ったのは「マルふ」と呼ばれた秘密兵器だった。1985年、40年ぶりに現地を訪れた当時の女学生たちがまとめた文集が、寺原八千代さん(92)=延岡市恒富町=の手元に残っている。短歌と手記で残された思いは、すっかり変わってしまった町の姿への寂しさと平和の切望だった。

 41(昭和16)年に勃発した太平洋戦争は長期化と戦況の悪化とともに、不足する労働力をカバーするため、徴用や勤労奉仕などを各家庭に強いるようになり、人も物も根こそぎ動員された。「銃後」と呼ばれた一般の国民生活は自粛自省が叫ばれ、日ごとに不自由となった。

 日ごとに強まる軍事色は子どもたちの日常へと及ぶ。小学校から変わった国民学校は軍事課目が一段と増え、男子には木銃・木刀訓練、女子にはなぎなたや救護の訓練が課されるようになった。

 このような状況の中、寺原さんら専攻科の女学生が工場での労働を申し出たのが44(昭和19)年11月だった。延岡高女を卒業して専攻科に進学したばかり。下級生たちが次々と動員されていくのを見て「私たちもみんなと同じように国のために頑張りたい」と校長に嘆願した。

 その願いがかない、専攻科36人は11月19日に担任の西川志づ教諭に引率されて小倉へと向かった。「兵器をつくる工場は空襲で真っ先に狙われるところ。親たちは生きて帰ってこないかもしれないと思っていたようです」

◆「マルふ」とは風船爆弾−4カ月間、和紙の気球を造る

 「マルふ」は戦局不利となった日本軍が開発した新兵器「風船爆弾」のこと。和紙で造った巨大な気球に爆弾をつり、秋から冬にかけて日本上空を吹く偏西風に乗せて飛ばし、アメリカ本土への攻撃を狙った。「ふ号」あるいは「ふ」の文字を丸で囲み「マルふ」と呼ばれた。

 作業を担ったのは西日本各地から動員された3千人近い女学生たち。その中で延岡高女の専攻科生は宮崎県では唯一だったという。
作業は1日2交代、12時間も同じ場所に立ちっぱなし。寮までは紫川の堤防沿いを1時間かけて歩いた。風呂は週1回で真冬でもお湯はぬるく、ひざまでしかなかった。

 「セメント床の硬さも、粉雪舞い込む寒さも、空腹も、眠さも、疲れも、作業中はまったく感じることはなかった。しかし衛門を一歩外に出ると、寒さと疲れにどっと襲われる感じがあった。そんな時は互いに励まし合いつつ、軍歌などを歌いながら、枯草の堤を歩いて帰りました」

 約4カ月間の作業を終え、誰一人病人を出すことなく、無事に延岡へ戻った。

◆寺原さん−忌まわしく、むごい戦
 40年後に文集−改めて平和を思う

 そんな鮮烈な青春の記憶が残る地を戦後40年の85年11月、引率教諭だった西川さん、寺原さんら女学生5人で訪れた。2交代で働いた造兵廠や「城野」というエリアにあった寮の場所を探したが、40年という月日は町並みをすっかり変えてしまっていた。

 小倉北区によると、小倉陸軍造兵廠の敷地は紫川の左岸側に広がり、面積は約58万3千平方メートル(福岡ドーム約8個分)。廠のあった場所には現在、役所や学校、病院などが建ち、都市高速が通る。

 寺原さんらは何人かに寮のあった場所などを尋ねたが、当時を知る人は見つからない。ようやく、城野駅の職員から寮のあった場所を教えてもらい、その場所にたどり着くと、ビルが林立し、頭上にはモノレールが走っていた。枯草ばかりの畑が広がっていた風景はどこにもなかった。

 寺原さんは手記で「もはや昔をしのぶよすがはない。しばしたたずみ、在りし日をしのんだ」と胸に広がる懐かしさとむなしさを記した。当時と変わらないものは紫川の流れだけだった。

 旅の途中では、結婚式の後だろうか晴着姿の女性たちを見かけ「平和とは美しく、のどかなものだと思う。戦とは悲しく、苦しく、忌まわしく、むごいもの。再び同じ轍(てつ)と踏むことなかれ。平和が続くことを切望するのみ」と締めくくった。

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