夕刊デイリー新聞社は、本紙に掲載された写真の提供サービス(有料)をしています。
スポーツで活躍した場面の写真、ステージでの発表会、さまざまな行事で新聞に掲載された写真をご家族の記念に保存されてはいかがですか?
写真は本紙記者がデジタルカメラで撮影したもので、新聞紙上では白黒でも提供写真はカラープリントです。
写真のサイズと料金は次の通りです。
▽L サイズ 1枚 300円
▽LL サイズ 1枚 500円
▽A4 サイズ 1枚 1,200円
(A4サイズはラミネート加工もできます。ラミネート加工は500円追加) |
L サイズ
(8.9×12.7センチ) |
1枚 300円 |
LL サイズ
(12.7×17.8センチ) |
1枚 500円 |
A4 サイズ
(21×29.8センチ) |
1枚 1,200円
(ラミネート加工は300円追加) |
|
提供できない写真もありますので、まず、本社にお電話をください。
掲載日などをお聞きし写真を確認した上で準備します。
受け渡しは、本社または支社、支局に来社していただくことになります。
写真によっては提供サイズが限られる場合があります。
また、事件、事故、災害、選挙、肖像権に関係する写真や本社に版権のない写真は提供できませんのでご了承ください。
写真は個人的利用に限ります。
印刷物などに用いることはできません。
写真提供サービス開始とともに、これまでの貸し出しサービスは終了します。
お問い合わせ、お申し込みは
本社(電話番号 0982-34・5000、平日は午前9時−午後5時、土曜は午前9時−午後3時)へお願いします。
|
志願して小倉の軍需工場へ−延岡高等女学校専攻科の36人
太平洋戦争終盤、延岡高等女学校専攻科の女学生36人は自ら軍需工場での労働を志願した。親元を離れ、寒風吹く北九州の小倉陸軍造兵廠(しょう)で製造を担ったのは「マルふ」と呼ばれた秘密兵器だった。1985年、40年ぶりに現地を訪れた当時の女学生たちがまとめた文集が、寺原八千代さん(92)=延岡市恒富町=の手元に残っている。短歌と手記で残された思いは、すっかり変わってしまった町の姿への寂しさと平和の切望だった。
41(昭和16)年に勃発した太平洋戦争は長期化と戦況の悪化とともに、不足する労働力をカバーするため、徴用や勤労奉仕などを各家庭に強いるようになり、人も物も根こそぎ動員された。「銃後」と呼ばれた一般の国民生活は自粛自省が叫ばれ、日ごとに不自由となった。
日ごとに強まる軍事色は子どもたちの日常へと及ぶ。小学校から変わった国民学校は軍事課目が一段と増え、男子には木銃・木刀訓練、女子にはなぎなたや救護の訓練が課されるようになった。
このような状況の中、寺原さんら専攻科の女学生が工場での労働を申し出たのが44(昭和19)年11月だった。延岡高女を卒業して専攻科に進学したばかり。下級生たちが次々と動員されていくのを見て「私たちもみんなと同じように国のために頑張りたい」と校長に嘆願した。
その願いがかない、専攻科36人は11月19日に担任の西川志づ教諭に引率されて小倉へと向かった。「兵器をつくる工場は空襲で真っ先に狙われるところ。親たちは生きて帰ってこないかもしれないと思っていたようです」
◆「マルふ」とは風船爆弾−4カ月間、和紙の気球を造る
「マルふ」は戦局不利となった日本軍が開発した新兵器「風船爆弾」のこと。和紙で造った巨大な気球に爆弾をつり、秋から冬にかけて日本上空を吹く偏西風に乗せて飛ばし、アメリカ本土への攻撃を狙った。「ふ号」あるいは「ふ」の文字を丸で囲み「マルふ」と呼ばれた。
作業を担ったのは西日本各地から動員された3千人近い女学生たち。その中で延岡高女の専攻科生は宮崎県では唯一だったという。
作業は1日2交代、12時間も同じ場所に立ちっぱなし。寮までは紫川の堤防沿いを1時間かけて歩いた。風呂は週1回で真冬でもお湯はぬるく、ひざまでしかなかった。
「セメント床の硬さも、粉雪舞い込む寒さも、空腹も、眠さも、疲れも、作業中はまったく感じることはなかった。しかし衛門を一歩外に出ると、寒さと疲れにどっと襲われる感じがあった。そんな時は互いに励まし合いつつ、軍歌などを歌いながら、枯草の堤を歩いて帰りました」
約4カ月間の作業を終え、誰一人病人を出すことなく、無事に延岡へ戻った。
◆寺原さん−忌まわしく、むごい戦
40年後に文集−改めて平和を思う
そんな鮮烈な青春の記憶が残る地を戦後40年の85年11月、引率教諭だった西川さん、寺原さんら女学生5人で訪れた。2交代で働いた造兵廠や「城野」というエリアにあった寮の場所を探したが、40年という月日は町並みをすっかり変えてしまっていた。
小倉北区によると、小倉陸軍造兵廠の敷地は紫川の左岸側に広がり、面積は約58万3千平方メートル(福岡ドーム約8個分)。廠のあった場所には現在、役所や学校、病院などが建ち、都市高速が通る。
寺原さんらは何人かに寮のあった場所などを尋ねたが、当時を知る人は見つからない。ようやく、城野駅の職員から寮のあった場所を教えてもらい、その場所にたどり着くと、ビルが林立し、頭上にはモノレールが走っていた。枯草ばかりの畑が広がっていた風景はどこにもなかった。
寺原さんは手記で「もはや昔をしのぶよすがはない。しばしたたずみ、在りし日をしのんだ」と胸に広がる懐かしさとむなしさを記した。当時と変わらないものは紫川の流れだけだった。
旅の途中では、結婚式の後だろうか晴着姿の女性たちを見かけ「平和とは美しく、のどかなものだと思う。戦とは悲しく、苦しく、忌まわしく、むごいもの。再び同じ轍(てつ)と踏むことなかれ。平和が続くことを切望するのみ」と締めくくった。