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伝統紡ぐ老舗染物店

本紙掲載日:2020-04-16
8面

昭和5年築の吉井染工場−延岡市大瀬町

◆レトロな雰囲気、際立つ色彩

 年季の入ったガラス戸を開いて一歩足を踏み入れた途端に空気が変わった。土間の先にある小上がりに何本も並ぶ五月のぼり。セピア色した室内とは対照的に武者絵の色鮮やかさが際立っていた。そこは延岡市大瀬町の吉井染工場。タイムスリップしたかのように感じる古い工場のほんの一部を、15代目の吉井汪(さかえ)さん(68)に案内してもらった。

 吉井染工場は江戸時代の寛永年間(1624〜1644)の創業。延岡藩御用達だった歴史を持つ老舗染物店だ。

 ここで作られるのは九州内でも数少ないとされる伝統的な「筒引手染」の染め物。今では県内で唯一、端午の節句に男の子の成長を願う「五月のぼり」の専門店として知られる。

 「染め物もね、日本酒と同じで水が良くないと駄目なんだよ。だからこの土地は良かったんだろうね」。道路を挟んだ隣には県内唯一の日本酒専門蔵・千徳酒造があり、真下を流れる大瀬川の伏流水の恩恵によって、良質な品が生み出されるという。

 創業は江戸時代だが、現在の建物が完成したのは昭和5年夏。当時の値段で建設費は1000円だったという。「おもて」と呼ぶ正面の建物は木造2階建てで、1階部分は客と応対する小上がりや作業スペース、2階部分は物置としてさまざまな道具が保管されている。今回案内してもらったのは、この1階部分だ。

◆戦火逃れ、変わることなく−15代目・汪さん「立派だよ」

 玄関をくぐるとまず目に入るのは小上がり。客を応対するスペースだけあって、壁には鮮やかな色使いの五月のぼりがいくつも飾られ、武者の気力に満ちた表情が出迎えてくれる。

 長い物では7・5メートルほどののぼりもがあるが、「最近では短い物が多くなってきてね。街中では広い土地が少なくなってきたせいもあるのかね」と汪さん。最近では5・5メートルのサイズが一般的となった。五月のぼりを揚げる家を見掛けると無性にうれしくなるのだそう。

 少し奥に進むと作業スペースが広がる。五月のぼり制作は好天の日に庭で行うことが基本だが、雨の日や来客の多い日にはこのスペースを使うことも少なくない。

 道具が積み重なる壁際の棚には驚いた。戦前まで使われていたという染料と、絵付けに使う現役のはけが共存して整然と並ぶ。染料が入る瓶や缶はほこりでくすみ、「國防色」などと書かれたラベルも色あせている。

 「今は石油から作った染料が主流だから、もうここにある染料は使わないんだよ。いずれは処分しなきゃって思ってるんだけどね」。もう不要なのかもしれないが、なくなってしまうのも惜しいような気がしてしまう。

 太平洋戦争中の空襲で周囲の建物は被害を受けたが、工場だけは奇跡的に無傷。その後の車社会の到来で工場前の道路が拡幅される際に曳家(ひきや)で数メートル移動しただけで、変わることなくこの場所に立ち続けてきた。「壊れることもなく、立派だよ」。そう話す汪さんの表情は誇らしげだった。


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