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人知れず眠る遺構−西南戦争の塹壕・堡塁か

本紙掲載日:2019-08-08
3面

長尾山―小梓峠―和田越一帯

◆稜線に残るくぼ地や堀切−延岡

 国内最大の内乱となった西南戦争は、1877(明治10)年8月15日、延岡の和田越で最終決戦を迎え、薩摩軍の敗北で幕を閉じた。一帯の無鹿山から和田越、小梓峠、長尾山の稜線(りょうせん)には不思議なくぼ地や堀切の跡が今も点在している。「これらは西南戦争時の遺構ではないのか」。少年のころからこれらの存在を知っていた同市無鹿町の牧野義英さん(68)は周辺を丹念に調査。加えて今日に伝わる逸話から、決戦のために薩摩軍、政府軍が築いた戦争遺構に間違いないと確信を深めている。

 和田越から長尾山に点在するのは塹壕(ざんごう)・堡塁(ほるい)と牧野さんは考えており、確認できたものだけで32カ所あった。戦争からすでに142年。くぼ地は埋もれかけ、山は雑木、シダに覆われている。当時のものだとすればまさに忘れ去られ、人知れず眠る遺構と言える。

 稜線一帯は造林地があり、未調査の場所もある。調査は、生い茂る草木をかき分けながら確認したという。ちなみに、牧野さんは土塁の形が半円状のものを堡塁、直線上のものを塹壕としている。

 数は和田越の本営跡から小梓峠までが12カ所、小梓峠の西から長尾山一本松までが20カ所。中でも規模の大きな塹壕は長尾山一本松手前にある長さ約10メートルと15メートルのものだった。

 これら堡塁・塹壕について、西南戦争を記録した陸軍参謀本部編さん「征西戦記稿」下巻の「延岡戦記」に薩摩軍が構築したという意味の「賊塁」、政府軍が「堡塁を急造」といった記述が見える。牧野さんは確認した堡塁・塹壕について、「征西戦記稿」の記述から、「稜線に残る30ほどの塹壕は勝敗が正午すぎに決着し、午後2時すぎに銃声が途絶えてから、政府軍が急造し、露営しながら薩軍の逆襲に備えた」「そのため塹壕の位置、向きが稜線の北側にあり、薩軍の敗走した方向を向いている」と指摘。長尾山一本松近くの塹壕は、「可愛岳方面からの侵攻を強く警戒したのでは」とみている。

 確認できた32の塹壕・堡塁のうち、構築位置が山の南麓にある2カ所については、「薩摩軍によるもの」とみている。

◇小梓峠の堀切と竪堀

 堡塁・塹壕以外で目立っているのが、小梓峠に残る堀切と竪堀(たてぼり)だ。

 旧豊後街道の古い通り道だが、近隣の人々が小梓と大峡・竹谷神社を行き来していた大事な場所だった。

 1955年代には小梓峠の下にずい道が掘られ、その上の峠はだれも通らなくなった。そのずい道上の小梓峠の稜線に堀切はある。高さは最大で3・5メートル、幅は3・3〜1・5メートル。長さは18メートルほど。この近くに竪堀跡も二つある。

 小梓峠の北側の麓になる大峡町の山崎洋一さん(73)は祖父母らからいくつもの薩摩軍に関する逸話を聞かされている。その一つが、「和田越決戦の前に薩摩兵数十人が突然押し掛けてきて、数十日間も寝泊まりした。めしを食って何か工事をしていた」。牧野さんは、薩摩軍が和田越決戦の前に本営予定地や小梓峠の堀切、竪堀、峠下の塹壕を造るなど、政府軍が攻めにくいように陣地を構築していたのではないかと推察する。

◇薩摩軍の弾薬庫跡か、無鹿山の不思議な縦穴

 牧野さんは小梓地区で生まれ育った。少年時代から付近で遊んでおり、不自然なくぼ地がいくつもあるのに気付いていたという。こうした遺構が西南戦争と結びついたのは、昨年のNHKの大河ドラマ「西郷どん」がきっかけだった。古希を前にこれまで研究してきたレポートを発表したいと考えていたこともあったが、直接的には、自宅の北東になる無鹿山の頂上手前斜面にある不思議な縦穴が端緒だった。

 縦穴は地面をくり抜いた円柱状。途中で穴の半分がさらに深くなっている2段構造。円形の東西幅が約2・5メートル、南北に約2・4メートル。深さは約2・4メートル。底から1・9メートルの所で2段になっている。

 この縦穴について、近くの児玉敬文(よしふみ)さんに何気なく疑問を投げ掛けたことで、これまでの謎が一挙に解けたという。

 疑問が氷解した児玉さんの話は、昭和40年ごろ近所のおばあさんから聞いた「あれは薩軍の弾薬庫跡。落ちると危ないから、目印にと穴のそばにヒノキを植えた。昔から無鹿にいる人はみんな聞いたことがあるはず」というものだった。確かに縦穴の南側には周辺の雑木より直径も大きく、背丈も高いヒノキが立っていた。

 縦穴のある無鹿山は、和田越などと一体になって北川の南西側に壁のように立ちふさがる。その和田越付近から南に突き出した尾根筋は神楽山と呼ばれていた。東海中学校の西側、国道10号の和田越交差点方面から和田越へ入る丘陵だ。住宅地として造成のため削られたが、それ以前は高さもかなりあった。

 牧野さんは、この神楽山が縦穴のある無鹿山をさえぎる地形をしており、「政府軍が布陣した稲葉崎方面からは弾薬庫のある所は神楽山があるため全く見えない」「砲撃を受けても神楽山があるから弾薬庫には着弾しない」とみる。しかし、弾薬庫に関しては「真偽は分からない」と慎重な態度だ。

◇和田越トンネル上に本営跡

 和田越から大峡に抜ける市道沿いに「西南戦争和田越決戦の地」の記念碑があり、牧野さんはそこから北へ約20メートル上った所に不自然に平らな開削地が「位置的にも薩軍本営跡」と推察する。西郷隆盛が西南戦争で最初で最後に陣頭指揮を執ったという場所だ。

 位置は国道10号の和田越トンネルの南側出口の上のやや東。牧野さんは「ここから尾根沿いに西へ行けば権現山、小梓峠、さらに西方の長尾山、南東へは神楽山、無鹿山、友内山の稜線上を結ぶ中間地点」「山上から見渡せば、当時は裸山同然だったから政府軍の指揮所が置かれた樫山や川島、北川方面、また、河口から艦砲射撃をしている軍艦の姿も、東西南北が手に取るように見渡せる絶好の地点だった」と指摘する。

         ▽        ▽

 稜線に沿って遺構がいくつも点在するのに、これまで誰も指摘してこなかったのはなぜなのか。牧野さんはとても不思議だと何度も話した。「あえて言わせていただくならば」と前置きして、「これまでの西南戦争に関する書物については現地踏査がなされていないのでは」と言う。

 いずれにしても「専門家、郷土史家に現地を調査していただきたい」と要望。そして、「自分としては将来この稜線に遊歩道ができないかと願っている。遺構を見ながら歩くことで、西南戦争に思いをはせてもらえれば。和田越から長尾山一本松間はアップダウンも少なくゆるやかで、3時間程度で往復できる。健康にも観光にも役立つよう活用することはできないか」と願っている。

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