【お知らせとおことわり】

 夕刊デイリー新聞ならびにYUKAN-DAILY-WEBを
ご利用いただきありがとうございます。

 著作権保護のためWEBブラウザ上からの記事・写真の
ダイレクトプリントができないようになっております。
ご了承下さい。

 サイト内の写真は本紙に掲載されたものですが
本紙掲載分の写真については以下のような規定があります。


 夕刊デイリー新聞社は、本紙に掲載された写真の提供サービス(有料)をしています。

 スポーツで活躍した場面の写真、ステージでの発表会、さまざまな行事で新聞に掲載された写真をご家族の記念に保存されてはいかがですか?

 写真は本紙記者がデジタルカメラで撮影したもので、新聞紙上では白黒でも提供写真はカラープリントです。

写真のサイズと料金は次の通りです。

▽L  サイズ 1枚 200円
▽LL サイズ 1枚 300円
▽A4 サイズ 1枚 800円
(A4サイズはラミネート加工もできます。ラミネート加工は200円追加)


L  サイズ
(8.9×12.7センチ)
1枚 200円
LL サイズ
(12.7×17.8センチ)
1枚 300円
A4 サイズ
(21×29.8センチ)
1枚 800円
(ラミネート加工は200円追加)

 提供できない写真もありますので、まず、本社にお電話をください。
 掲載日などをお聞きし写真を確認した上で準備します。

 受け渡しは、本社または支社、支局に来社していただくことになります。
 写真によっては提供サイズが限られる場合があります。
 また、事件、事故、災害、選挙、肖像権に関係する写真や本社に版権のない写真は提供できませんのでご了承ください。

 写真は個人的利用に限ります。 印刷物などに用いることはできません。

 写真提供サービス開始とともに、これまでの貸し出しサービスは終了します。


 お問い合わせ、お申し込みは
 本社(電話番号 0982-34・5000、平日は午前9時−午後5時、土曜は午前9時−午後3時)へお願いします。

 

記紀ゆかりの地を訪ねて−鹿児島

本紙掲載日:2019-06-19
6面

日向神話研究会と延岡観光協会−鹿児島視察同行記

 霧島連峰・高千穂峰を天孫降臨の地とする鹿児島県には、ニニギノミコトの御陵墓「可愛山陵」をはじめ、ニニギとコノハナサクヤヒメが出会ったとされる笠沙の岬、神武天皇お船出の地など宮崎県と同じように古事記、日本書紀ゆかりの地が存在する。延岡、日向市、高千穂町などの有志でつくる勉強会「日向神話研究会」(有留秀雄会長)と延岡観光協会(谷平興二会長)の視察に同行し、日向神話のもう一つの舞台を訪ねた。

◇笠沙(かささ)の岬

 高千穂峰に降り立ったニニギノミコトは、宮居を探して海路「吾田(あた)の長屋の笠沙の御(みさき)」に上陸したとされる。吾田は鹿児島県西部の古名。御とは、薩摩半島の南西端から東シナ海に突き出た野間半島一帯を指すといわれる。

 南さつま市笠沙町の黒瀬海岸に「上陸地の碑」が建つ。「尊の一行は肥沃の地を求めて日南海岸を舟で南下し薩摩半島を西に廻って…」。碑文にそうある。

 地元で「神渡海岸」と呼ばれる岩場には小さな船だまりがあり、防波堤にのぼると小島を散らした風光明媚(めいび)な海岸線が広がる。正面に横たわる沖秋目(おきあきめ)島は別名枇榔(びろう)島と呼ばれ、1967年公開の映画「007は二度死ぬ」のロケ地になった。

 加世田いにしへガイド会長の福元拓郎さん(75)によると、ニニギは笠沙の御で神吾田津姫(カムアタツヒメ)、つまりコノハナサクヤヒメと出会い、上陸地に近い宮ノ山を越えて「竹嶋」と呼ばれた野間岳(標高591メートル)で国見をしたとされる。

 諸説あるが、最初の宮居「笠沙宮」を構えたと伝わるのは南さつま市中心部から3キロほど東側の舞敷野(もしきの)地区。「朝日の直刺す国、夕日の日照る国、甚吉き所(古事記)といって、ここに宮居を建てたという」と案内板に書かれている。

 桜並木の広場の奥に「笠狭宮跡」と刻まれた記念碑があった。神武天皇即位を元年とする皇紀2600年を記念し、昭和15(1940)年に建てられた。今は訪れる人も少なく、時代から忘れ去られたようにひっそりとたたずむ。

 南さつま市加世田の吹上浜には、かつて陸軍最後の特攻基地「万世飛行場」があった。悲惨な戦争の歴史も知る福元さんは「記紀神話が国威発揚に利用された時代があった。神話は楽しく、ロマンを持って語りたいのだが…」とポツンと言った。

 笠沙宮は、後に海に近い加世田宮原、そして川内の地に移されたという。

◇神代三山陵

 薩摩半島の北西部にあたる「北薩」地区の中心都市が薩摩川内市。可愛山陵は、川内川を見下ろす標高70メートルほどの神亀山にあり、ニニギノミコトを祭る新田神社とクスの古木に守られる。

 ニニギは笠沙宮から川内に移り住み、この地で亡くなったとされる。川内の地名は、ニニギが高台や高殿を築いて治めた「千の台」に由来するといわれ、川内、千台、千代などまちまちだった表記が享保5(1720)年に川内と統一された。

 薩摩川内市教委によると、西欧列国の影響が強まる中で天皇を中心とした国造りを迫られた明治政府は、本居宣長らによる国学の影響もあって記紀に基づいた歴史感や思想を重要視、神武天皇に直接つながる歴代天皇の墓所を特定する作業を進めた。

 宮内庁は明治7(1874)年7月10日、可愛山陵のほか、ニニギの皇子で「山幸彦」とも呼ばれるホオリノミコトの墓「高屋山上陵」(霧島市)、孫で神武天皇の父ウガヤフキアエズノミコトの墓「吾平山上陵」(鹿屋市)を御陵墓と認定した。

 一連の作業には、明治政府における鹿児島の政治力が背景にあったといわれている。そのせいか、市教委が昨年3月に発行した資料には「三山陵についてはほかにも候補地がある」として延岡市北川町俵野の陵墓参考地、西都市の男狭穂塚陵墓参考地も紹介している。また、天孫降臨の地についても「西臼杵郡高千穂町とする説があり、はっきりしたことは分かりません」と書いている。

 薩摩川内市公認観光ガイドの永田利治さん(74)は「神話には分からないことが多い。宮崎にある御陵墓参考地にもぜひ行ってみたいし、宮崎と協力して日向神話を盛り上げていきたい」と話した。


その他の記事/過去の記事
page-top