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板田橋が「命の橋」−延岡大空襲

本紙掲載日:2018-08-15
1面
倉橋規子さん
現在の板田橋。写真右側は祇園町のアーケード街、左側は中央通方面

当時、元町で暮らした倉橋さん−防空壕から橋下へ

◆「逃げなければ蒸し焼きだった」

 延岡市北一ケ岡の倉橋規子さん(80)は「私にとっての『命の橋』は板田橋だった」と振り返る。

 延岡大空襲のあった昭和20年、岡富国民学校2年生だった倉橋さんは、有馬時代に成った「延岡七町」の一つ、元町(現在は祇園町1丁目)に住んでいた。

 父親は男物の洋服をあつらえる仕事で自宅は店を兼ねていたが、戦中でミシンは供出、雇っていた職人も兵隊に取られ、自身は火薬工場に勤務しており、その夜は当直で家にいなかった。当時31歳の母親と長子の倉橋さん、弟2人とまだ1歳半の妹が一緒に寝ていた。

 6月28日午後10時か11時ごろ警戒警報がなり、子どもたちは母親に起こされた。

 表に出てみると、稲光のようにピカッと光ってはバラバラと爆弾が落ちてくる。倉橋さんは、まだ新しいランドセルを背負い、自宅の地下に掘ってあった防空壕(ごう)に入った。しかし「ここも危ない」と、家の裏にあった地区の防空壕に、さらに板田橋の下へと逃げた。当時は洗い物に使っていた五ケ瀬川の河原だ。

 そこにはもう100人ほどが逃げてきていた。飛行機は、橋や川面のすれすれまで降りてきて攻撃してくる。水しぶきがバババと上がるたびに気絶しそうになった。母がぎゅっと手を握ってくれた。川に入っていた人が、ぶつぶつと拝んでいる。対岸の家々が燃え、その照り返しで顔が熱いほどだった。子どもとはぐれて動転している人の声も聞こえた。

 板田橋は有馬時代の寛文7(1667)年に造られた市内最古の橋。昭和10年にコンクリート橋になっていた。倉橋さんらはこの橋に助けられた。「空襲がやんで夜が明けた時、近くの表具屋のおばさんが、みんなに乾パンを一つずつくれた。6月29日、絶対に忘れないと思った」

◆焼き尽くされた町「元町は町名までなくなった」

 元町は紺屋町や博労町とともに全焼。倉橋さん方も焼けた。「防空壕にいたら蒸し焼きになっていただろう」と話す。

 自宅を出る時、貴重品でも取りに戻ったかと思った母は、なぜか羽釜を抱えてきた。前の晩にしかけた米が入っていた。母は妹を背負って羽釜をかかえ、弟2人は母のもんぺをつかみ、倉橋さんが下の弟の手を引くといういでたちだった。

 くすぶっている町を、母方の祖母の住む山下町に向かって歩き、父親と再会した。終戦の日は、北川町瀬口の父方の祖母宅で迎えたという。

 「元町は風情のあるいい町だったけど、町名までなくなってしまった」と惜しむ。

 脳裏にはあの日の恐ろしい光景が今もまざまざと浮かぶ。「あの頃のことは話したくないという人が多いけど、私は、自分が知っている限りのことは伝えたいと思う」と話した。

◆命の橋

 延岡大空襲の際、焼夷(しょうい)弾攻撃を避けて多くの人がコンクリート橋の下に逃げ込んだ。板田橋から川中地区を隔てて大瀬川に架かる安賀多橋でも多くの人が救われ、同橋の北詰めには「命の橋」と銘の入った座石が建立されている。

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