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島野浦空襲から73年

本紙掲載日:2018-05-02
3面
父新雄さんの戦死を知った日のことを語る塩谷さん
今でも島野浦に残る防空壕跡を見つめる塩谷さん
島野浦小学校敷地内に立つ学童戦災之碑

昭和20年5月2日のこと

◆銃撃で児童ら6人犠牲に−塩谷さんが語る戦争の悲劇

 73年前の5月2日、延岡市の離島島野浦を米軍爆撃機が襲い、6人の尊い命が犠牲になった。「小さな島で起きた悲劇を忘れないように」と空襲を体験した人たちは当時の出来事を語り継ぎ、記憶の継承に努めている。;本記事=
同市島浦町在住の塩谷五月さん(80)=旧姓稲野=が島野浦国民学校に入学したのは昭和19年4月のこと。太平洋戦争勃発からすでに2年4カ月が経過していた。同時期、父親は召集令状を受けて戦地へ。「楽しい思い出はほとんどありませんでしたね」と振り返る。

 2年生に上がって間もない同20年5月2日。大師祭当日の島は空襲警報もなく、小雨降る静かな朝を迎えていた。午後からは島野浦神社前で演芸会が行われる予定で、出演する劇団を迎えるため漁船松福丸(10トン)が出港した。

 その朝、登校した児童は、授業後のお祭りに思いをはせながら教室で自習をしていた。その時、突如、週番の高等科生の叫びが校内に響いた。

 「敵機来襲!退避!」

 はっきりと覚えているのは、校舎の壁を突き破ってくる銃弾から逃げ惑う最中、両足を打ち抜かれて、這(は)って逃げる男子児童の姿。どうすることもできず、防空壕(ごう)へと逃げ込んだ。

 米軍機はまず松福丸を、次に港に停泊していた監視船を銃撃し、さらに狙いを学校に定めて飛来してきていた。

 「もし襲撃が10分早かったら、登校中や自習前に校庭で遊んでいた児童の多くが撃たれていたと思います」

 米軍機は島の上空を旋回しながら8回にわたって繰り返し銃撃を加え、爆弾や曳光(えいこう)弾を落として去っていった。

 国民学校6年の長野栄二さん(13)、高等科1年の島田光代さん(13)、2年の冨田速男さん(14)、山本豊生さん(同)、女子警防団の山本花子さん(23)、在郷軍人(予備役)の池田高利さん(32)が亡くなった。

 平和な、小さな島に暮らす幼い子どもですら犠牲となる戦争を目の当たりにした島野浦の人たちは、大きな悲しみと心に衝撃を受け、戦後、口を固く閉ざし、多くを語ろうとはしなかった。

 塩谷さんは「戦争を繰り返させないためにも、戦争体験者の声を若い世代へ」との思いから住民を説得し、平成10年、有志とともに〃5月2日〃の記憶をとどめる18人の声を文集「島物語〜太平洋戦争末期悲話・島野浦戦災記〜」にまとめた。

 文集はその後、複製されるなどして延岡市内を中心に広まり、さらに抜粋した話に絵を加えた紙芝居も製作された。現在は計5部を島野浦中学校や延岡の語り部「もえぎの会」などが所有している。

◇誰にも言えなかったこと

 文集や紙芝居の製作に加え講演活動などを通して戦争の記憶を伝えてきた塩谷さんだが、これまで誰にも言えずにいたことがあったという。

 「父の死を知った日のこと、その後のわが家の様子は、何よりも思い出すのがつらくて、誰にも言えませんでした。でも80歳を迎え、いつまで伝える活動ができるか考えるようになり、今後は話していくことにしました」

 塩谷さんの父稲野新雄さんは、フィリピンのカモテス島で亡くなった。35歳だった。カモテス島には島野浦からもう一人出征し、新雄さんと同じ部隊に配属されていた。

 「帰郷されたその方が、意を決して我が家を訪れ、私たち家族に父の死を教えてくれました」

 戦争終結から約3カ月がたったある秋の日、夕飯後のことだったという。祖母は風呂に入っていて、母は何かを察したのか炊事場から出てこなかった。

 「お父さんのことを聞けー」。風呂場から祖母が叫んだ。

 「その人はぽつりと『亡くなりました』とおっしゃいました。頭部に銃撃を受けて12月23、24日のことだったそうです」

 父の死が知らされた日から数日間、母と祖母は寝込み、家は昼間から閉め切られ、真っ暗な状態が続いたという。塩谷さんは目に涙を浮かべながら「学校から家に帰ってくるのが嫌でした。あんなに憔悴(しょうすい)した母と祖母は初めてで。今でもあの時のことを思い返すのが一番つらいですね」。

 今年3月31日、会員の高齢化と後継者不足のため、延岡市遺族連合会が解散した。解散を知らせる文書を受け取った際、塩谷さんは「自分の〃遺族〃という一面が無くなった気がした」という。

 ただ、この出来事は戦争の記憶の継承に向け、新たに意欲を燃やすきっかけにもなった。塩谷さんは「遺族一人一人の活動がより大切になってくると思います。これまで話せなかったことも含めて、できる限り『語る』活動を続けていきたい」と話している。

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