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記憶のかなたに…―昭和16年設立の延岡市立高女

本紙掲載日:2017-10-25
8面

県立と市立、延岡に二つの高等女学校があった

◆本紙投稿がきっかけ−情報提供を求めます

 発端は、今年7月、本紙に寄せられた原稿だった。書いていただいたのは延岡市の高橋アイ子さん(91)。

 その数日前の読者ジャーナルに掲載された延岡市の初代市長、仲田又次郎さんに関する投書を読まれた高橋さんが、仲田又次郎さんのことを思いだして書いてくださったのだった。

 そこには「私が延岡高等女学校に入学したときの校長先生が仲田又次郎さんでした。のちに石川校長先生が赴任してこられました」と書かれていた。

 それを読んだ担当記者が編集部内で「仲田又次郎さんは、延岡高等女学校の校長をされていたのですか?」と疑問を投げかけた。

 そのことを知っている記者はおらず、みんな初耳だった。書物を調べてもその記録は見つからなかった。事実確認に追われた。

 延岡高等女学校の同窓会「藤蔭会」の寺原八千代会長(90)に「仲田又次郎さんは延岡高等女学校の校長をされていたことがあるのですか?」とお聞きすると「聞いたことがありません」との返事。

 高橋さんの記憶違いなのだろうか。

 ところが翌日、寺原会長から「県立延岡高等女学校とは別に延岡市立高等女学校が一時期ありましたので、そちらの校長をされていたかどうかは、分かりません」という連絡をいただいた。

 県立延岡高等女学校は、女子教育に力を入れた内藤家が明治期に設立し、昭和4年、県に寄付する形で県立に移管された学校。

 だが、別に一時期、延岡市が設立した延岡市立高等女学校があったことは、今では知らない人が多い。

□延岡市史には

 そこで、延岡市史を調べると、確かに次のように記されていた。

 「昭和十五、六年ごろ、女子の中等教育機関は延岡高等女学校のみで、今一校の女学校設立はぜひ必要であると世論は一致。かくて延岡市立高等女学校が昭和十六年三月十四日認可、四月十一日開校した。ところが戦争の激化で昭和十九年四月県立延岡高等女学校に合併移管され三カ年で市立高女は姿を消した」(別項参照)。

 これによって延岡市立高等女学校が昭和16年に開校し、昭和19年に県立延岡高等女学校に併合されたことが確認された。

 設立の経緯、市民の要望など民意などが詳しく書かれている。この市史が発行されたのは昭和38年。執筆者も当時の状況をよく知っていたとみられる。

□延岡高校百年史には

 「延岡高校百年史」を見ると、2ページにわたって延岡市立高等女学校に関する記載があった。

 そのほとんどは延岡市史をそのまま引用していたが、昭和十九年四月の県立と市立の合併後の当時の在校生しか知らないことが書き加えられていた(別項参照)。

 ただ、市史にも延岡高校百年史にも、延岡市立高等女学校の校長のお名前までは書かれていない。市役所も空襲で焼けたため記録が残っていないという。

 仲田又次郎さんが校長だったという記録は見つからず、高橋さんの記憶に頼るしかない。

 高橋さんは「私が延岡高等女学校に入学したときの校長先生が仲田又次郎さんでした。のちに石川校長先生が赴任してこられました」と書いておられる。

 ということは、延岡市立高等女学校が設立された当初の校長が仲田又次郎さんだったことになる。

 仲田又次郎の年譜を見ても延岡市立高等女学校の校長に就任したという記録は見つからない。

 だが、同校が開校した昭和16年といえば、初代市長を退任後の公的にはフリーの時期であり、正規の校長が来るまでの間、頼まれて校長をした―という可能性も想像できる。

 仮にそうだとしても、翌17年には県議会議員に当選していることから短期間だったとみられる。

 いずれにしても、仲田又次郎が延岡市立高等女学校の校長を務めたという活字の記録は見つかっていない。

 そこで、高橋さんの記憶を補強するためにも、どなたか、そのことをご存じの方がおられれば、情報提供をお願いします。

 連絡先は、〒882・8577延岡市大貫町2丁目1302、夕刊デイリー新聞社編集部(電話延岡34・5000、ファクス34・5050)にお願いします。


□仲田又次郎(なかた・またじろう)
(明治26年7月25日〜昭和45年1月23日)
昭和8年2月11日に市制施行した延岡市の初代市長に選挙後の4月15日に就任。39歳だった。昭和12年まで1期務めて退任した。その間、須崎橋、五ケ瀬橋、板田橋、川島橋が完成、安賀多橋にも着工し、「橋架け又次郎」と呼ばれた。
市長退任後は、延岡瓦斯取締役就任(昭和13年)、延岡商工会議所議員(同14年)、仲田商店取締役社長就任(同)、今山八幡宮氏子総代就任(昭和15年)、県議会議員に当選(昭和17年6月)、戦後も再び第9代延岡市長に就任(昭和23年7月〜同27年6月)した。(仲田又次郎翁遺句集「二つ橋」掲載の年譜から)。

◆懐かしい仲田又次郎さん・高橋アイ子(91)
拝啓去る七月十七日の夕刊の読者ジャーナルに、仲田又次郎さんの名前を拝見し懐かしく思いだしましたのでペンを取りました。私は大正十五年生で高等小学校(延中)を卒業した年に延岡高等女学校が設立され、試験を受け入学することができました。各高等小学校から入学した者は実科生(二年間)。尋常小学校から入学した者は本科生(四年間)と言っていました。当時は大東亜戦争に勃入していましたので、新たに学校は設立されず今の延中の校舎の北側の一棟があてられての出発でした。その時の校長先生が仲田又次郎さんでした。のちに石川校長先生が赴任してこられました。仲田校長先生とお別れすることになり、年長の私たちのクラスでお別れの作文を書くことになり作文を提出しましたところ大変およろこびになり、その時、私も含めて三人の作文を家の宝としてとっておくと言って下さり、私自身も大変うれしく思ったものでした。
思えば七十七、八年前の懐かしい思い出になります。昭和二十年の延岡大空襲で延中も大きな被害を受けましたので、のちに県立延岡高等女学校に編されたときいております。短い生涯でしたので、市民の皆さまには記憶されている方は少ないと思います。
当時校長先生ともなれば近づきがたい存在で敬遠しがちでしたが、親しみやすい優しい校長先生でした。今や私も超高齢になり施設にお世話になっております。二度と投書することもないと思っておりました。久しぶりに投稿する機会を得うれしく思っております。


◆延岡市史の記録
 延岡市立高等女学校−昭和16年開校、19年県立と併合

 昭和十五、六年頃の延岡市は人口の増加と共に中等教育機関としては男子は延岡中学校、延岡商業学校の二校があったが、女子の方は延岡高等女学校のみで入学志願者激増のためにこれを満たし切れず、しかも入学定員二〇〇人に対し毎年その倍である四〇〇人からの入学志願者のために入学が困難となり、入学準備教育にからんでいろいろな声が起こり当局にとっても父兄にとっても悩みの種であったが、年々発展し膨張してゆく延岡市の現状からみて今一校の女学校設立は是非必要であると、世論は一致していた。市当局としてはその財源の問題が大きな障壁であったが、結局は独立の高等女学校を設立すべしという市内各小学校教育後援会長からの陳情や、世論の積極的な動向に動かされて、市立高女設置の計画が進められた。しかし当時延岡には佐藤重遠氏の経営する延岡実践女学校があり既設の学校に対して大きな影響のあることも充分に考慮されなければならないので、実践女学校との連絡了解をよくつけ、校舎はさしあたり、延岡高等小学校内の一棟を充てることとした。
 かくて昭和十六年三月十四日認可され、四月十一日開校式というふうに順調に進みここに待望の延岡市立高等女学校が誕生したのであった。学校の編成は実科と普通科とし、実科(小学校高等科卒業生)一学級五〇人二カ年制、普通科は二学級制で四カ年定員一〇〇人合計一〇学級五〇〇人定員、高等女学校令による中等学校として一般父兄の期待と喜びは大きいものがあった。当時の県立延岡高女の定員二〇〇人と併せて合計三五〇人が市立高女の出現によって中等教育を受けられることとなったわけである。
 ところが大東亜戦争の深刻化と共に昭和十八年十二月十二日閣議決定事項の「教育に関する戦時非常措置方策」などによって学校の整理転換移転統合等を余儀なくせしめられるに至り、昭和十九年四月県立延岡高等女学校に合併移管され四カ年で市立高女は姿を消した。このため県立延岡高女の入学者定員は四学級二〇〇人から六学級三〇〇人となり市立高女の存立期間は短かったが、一応その設立目的は達成せられたのであった。

◆延岡高校百年史−合併で6クラス300人に
 校舎が足りず内藤御殿で学ぶ

 昭和十九年四月、合併した市立高女の生徒を迎えるため、県立高女の生徒たちは、れんが塀の前から本小路の道路に並び、これから同じ校舎で学ぶ友を迎え入れた。なお、この時、高等科二年で試験を受けて入った当時の延高女の工業科生(一クラス五十人)も、延高女生として編入されることになった。

 延高女は大正九年(一九二〇)四月、募集定員百人となり、その後、定員二百人(四クラス)となって、クラスの名称は、東組、西組、南組、北組、と呼ばれていたが、合併により三百人(六クラス)となったため、この時以来、一組〜六組と数字で呼ばれるようになった。

 校舎は、生徒数が増えたためはちきれそうになったので、三十七回卒で講習科(旧専攻科)に進んだ人たちは、旧藩主内藤邸の畳敷きの大広間を借りて、そこに裁縫用の机を並べて授業を受けたという(学制八十年史、宮崎県政八十年史、平野ツル著「私の人生劇場」参照)

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