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延岡大空襲、犠牲者を悼む

本紙掲載日:2017-06-29
1面
焼香を済ませ延岡空襲殉難者に手を合わせる参列者
参列者全員が殉難者の冥福を祈った
家族4人の名前が刻まれた石碑の前に立つ福山博隆さんと参列したきょうだい

今山の殉難碑前、遺族ら平和願い

 延岡大空襲の殉難者慰霊法要が6月29日、延岡市今山の弘法大師広場にある延岡空襲殉難碑前で営まれた。今山大師(野中玄雄住職)、延岡仏教会の僧侶がお経を唱える中、参列者は72年前、昭和20年6月29日の延岡であった悲劇を思い、犠牲者の冥福と世界平和を願った。

 参列したのは長年、遺族会の世話をしている大瀬町の吉本惟栄さん(90)ら市内の遺族のほか、県外からの遺族、同市北町のわかば幼稚園の園児ら50人。今山大師の鐘を合図に一斉に黙とう、野中住職らが経を唱える中、参列者は殉難碑前の祭壇に次々と焼香、静かに手を合わせた。

 延岡大空襲は昭和20年6月29日未明のことだった。飛来した米軍爆撃機B29が焼夷(しょうい)弾を投下。この攻撃により市内の中心部は瞬く間に火の海となり、多くの市民が命を落とした。

 空襲2日後にまとめられた被害状況によると、即死130人、行方不明8人、重傷者11人、軽傷者48人、被災戸数3765戸、被災者数1万5232人。当時の全戸数の28・7%、全人口の25・5%が被災したという。

◆家族4人を失う−県外から参列、福山さんきょうだい

 県外から参列したのは、東京都の福山博隆さん(89)と、弟で次男の博明さん(80)=福岡=、四男の博勝さん(71)=茨城=、妹で長女になる直子さん(87)=長崎=、次女の住子さん(85)と住子さんの夫・森本隆幸さん(83)=熊本=の6人。この6人で訪れたのは2回目という。

 博隆さんの家族は当時、春日町に住んでおり、そこで空襲に遭い、祖母のソノさん、三女の延子さん、四女静子さん、三男の博和さんを失った。

 「亡くなった4人をリヤカーで火葬場に運んだが、死者が多くてすぐに弔うことができなかったことを鮮明に覚えている」と博隆さん。

 直子さんは空襲の日のことを「B29はいつも素通りしていたので油断していた」という。空襲警報が鳴ったとき、2階で寝ていた直子さんは急いで自宅の庭にあった防空壕へ。祖母と妹と弟を先に避難させようとした所に焼夷弾が落ち、3人はやけどを負った。

 直子さんらは大きな防空壕(ごう)がある隣の家に避難しようとしたが、すでに人がたくさんおり、大瀬川近くの広場に行き着いた。空襲が収まって近くの病院に3人を連れて行ったが、負傷者であふれており、違う病院を受診。そこで3人を診た医師は横に首を振ったという。

 次男の博明さんは「今でも街中が燃えている光景を思い出す」と涙を浮かべていた。

 被災前は、祖母、両親ときょうだい7人で暮らしていたが、被災後、一家は高鍋に移住。末弟の博勝さんは空襲から10日後、高鍋に移ってから生まれたという。

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