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戦後苦難の道のり−古舘豊さん解説

本紙掲載日:2017-06-26
7面

第14回平和祈念資料展の展示資料から(1)

 「第14回平和祈念資料展」は7月9日まで延岡市立図書館で開かれています。「海外引揚げ故郷へ故郷へ」をテーマに、戦後のシベリア抑留、北朝鮮や満州(現在の中国東北部)から日本に帰国した人々の苦難の道を記録した絵画や写真など約100点を展示。その一部を、同展の企画構成など全般を手掛けた軍事史研究家の古舘豊さん(東京都)が18日に行った資料解説をもとに紹介します。

□主催/延岡市教育委員会。夕刊デイリー新聞社
□後援/宮崎県宮崎県遺族連合会
□協力/平和祈念展示資料館(東京都新宿区)。舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)
□協賛/デイリー健康福祉事業団



◇どこに引揚げてきたのか

 1945(昭和20)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して、いわゆる終戦を迎えます。その段階で海外にいた日本人は軍人・軍属、民間人合わせて約660万人。主に中国大陸を中心に東南アジア。太平洋の島々と広範囲に及んでいました。

 この人たちは日本のどこに引揚げてきたかというと、北海道の函館から九州の鹿児島までほぼ全域にわたっています。おおざっぱに言うと、日本海側の舞鶴(京都府)、仙崎(山口県)、博多(福岡県)、佐世保(長崎県)は大陸方面からです。舞鶴はシベリア抑留が終わって帰って来た方が大半。太平洋側の例えば横浜(神奈川県)、浦賀(同)、名古屋(愛知県)、田辺(和歌山県)、鹿児島などはオーストラリアやニューギニアなどの南方方面からです。

 博多、佐世保には民間人を合わせると各約139万人が中国や朝鮮半島から引揚げてきます。それだけ多くの日本人がそちらの方面にいたということが分かります。

◇突如、ソ連軍の侵攻

 昭和20年8月9日、ソ連軍はそれまで結ばれていた日ソ中立条約を破棄。原爆が落とされ日本の降伏は近いと見計らって樺太や満州、北朝鮮などに怒濤(どとう)の勢いで攻め込んできます。ソ連軍の数は約200万人。ヨーロッパ戦線で使った兵器、兵員をシベリア鉄道で運んできて投入します。

 日本には全く知らせがないままに開戦に踏み切ってきました。多くの体験者は「ソ連は突如として侵攻してきた」「しかも飛行機や戦車やトラックでもって一気にやってきた」と証言しています。

 満州には関東軍が数の上では70万人はいましたが、その当時、第一線級の兵備は南方戦線に送っていたため、ソ連軍の侵攻の前には全く歯が立たないような状態でした。

 奈良県の吉田勇さんという抑留体験者が描いた絵「無抵抗の民間人まで」は、満州の真ん中辺りの横道河子という所でソ連軍機が突如、列車を攻撃してきた場面です。牡丹江辺りでの証言によると、飛行機が飛んで来ると下では「万歳、万歳」と手を振って迎えたそうです。日本軍の飛行機だと思ったんですね。ところが突然爆弾が落ちてきて阿鼻(あび)叫喚になったそうです。

 麻刀石という場所での戦いで日本軍は、ソ連軍を迎え撃つ戦法の一つとして、地面に穴を掘り、その中でソ連軍の戦車を待ち、戦車が来たら爆雷を爆発させるという戦法を取っています。「麻刀石の戦い」という絵も佐藤清という抑留を体験した方が体験をもとに描いた絵です。

 この作戦はほとんど成功しませんでした。というのはソ連軍は戦車の前に歩兵が来て「あそこに日本兵が穴を掘っている」と分かると、ソ連軍の戦車はその辺りを走り回って日本兵もろともに埋めたそうです。

◇停戦協定武装解除

 ソ連軍が撮った写真を紹介します。まず停戦協定に向かう日本軍軍使と通訳官です。必ず歩かされてソ連軍の戦車など装備を見せつけるようにして連れて行きました。停戦協定の状況を撮った写真を見ると、日本側は立ちっぱなしでソ連軍側は座って指図をしています。

 日本軍の武装解除の写真を見て驚いたのは、左側に写っているのは年老いた兵士です。満州の関東軍は昭和20年5月の段階から、ありとあらゆる男性を召集します。いわゆる根こそぎ動員で兵員の数をとにかく増やしたのです。また、武装解除した機関銃が大正3(1914)年製だったことにも驚きました。

 武装解除後に中間の集結地まで強制連行されます。展示している写真「満州の海城から遼陽の集結地まで徒歩で移動させられる兵士」の数は2万7000人です。

◇少年たちもシベリアへ

 日本国内から14歳から19歳までの男の子たちが満州開拓義勇軍として集められ、満州に送られました。その義勇軍の子どもたちもソ連軍の武装解除を受け、シベリアへ連れて行かれます。

 隊員を選別するときにソ連軍はさおを持ってきて、だいたい1メートル50センチぐらいのところに印を付けていました。それを少年たちに当て、「1メートル50センチに達していないからお前は除外」、それ以上だったら「お前はこっち」と抑留されました。

 抑留された少年たちはほとんどが白ロシア、つまりバイカル湖を越えてヨーロッパ側に連れて行かれます。この人たちも一般の成人男子と同じような働き方をさせられました。

◇強制連行の途中で

 大阪の吉岡芳延さんの絵「東京城(トンキンジョウ)の出会いと別れ」は、吉岡さんが強制連行をさせられる途中、満州の奥地から逃げてきた開拓団の人たちと出会った時の様子を描いています。
 
 「兵隊さん、早く助けに来て」と必死に叫んでいたが自分たちはどうしようもない。何もすることもできない。吉岡さんは絵に「今でも、あの情けない身のことを忘れることは無い」と記しています。吉岡さんは絵に関して全く素人で、70歳近くなってから絵画教室に通い、何とかして自分の思いを伝えたいとこの抑留絵画を描き始めました。

 樺太からシベリアに抑留された立花信男さんの絵「地獄の船底」は、樺太で終戦になってソ連の沿海州まで運ばれる時の船艇の中を描いています。一般の兵士が3000人、警官が800人の合わせて3800人がソ連貨物船の船底に押し込められ、真岡港を後に北上、ソフガワニに向かいました。

 トイレが甲板にあるため、縄ばしごを登って行かなければなりませんでした。そのため行ったり来たりしている人たちを描いています。

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