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「延岡の父・内藤政挙公」その功績と顕彰事業の歩み

本紙掲載日:2017-05-25
7面
内藤政挙公の業績や顕彰事業の歩みについて話す増田さん
礼服姿の内藤政挙公

延岡市文化課専門学芸員・増田豪さん記念式典で講話

◆延岡の発展に尽くすとの強い意志−崇高な志を学び受け継いでいく

 延岡中興の父と慕われる延岡藩最後の藩主・内藤政挙公の没後90周年と銅像建立100周年記念式典が23日、延岡市の城山公園本丸広場であり、市教育委員会文化課専門学芸員の増田豪さんが「延岡の父内藤政挙公〜その功績と顕彰事業の歩み」をテーマに話した。要旨を紹介する。

 内藤政挙公は、遠江国(現在の静岡県)掛川の5万石の藩主・太田資始公の六男として生まれました。誕生された場所は静岡ではなく、掛川藩の下屋敷がありました江戸駒込で嘉永3(1850)年5月10日に生まれたとされています。

 内藤家の資料に基づきますと、政挙公は、太田家の三男という書かれ方をしているケースも多いのですが、実は、太田家では生後すぐに亡くなられた兄が3人いますので、正確に申し上げると六男になります。幼名は寛次郎といい、江戸屋敷で過ごしました。

 政挙公については、内藤家の養子となる万延元(1860)年の前年の安政6(1859)年ころから資料上で名前が確認できます。それまでの幼少期の姿や生活などは資料上で確認できませんが、元気でやんちゃだったことが内藤家に伝えられています。

 安政7(1860)年3月、桜田門外の変が発生します。当時の内藤家15代当主・政義公は井伊家からの養子で、太田家も井伊大老の下で老中を務める家柄のため、激動の中に両家の養子縁組の話は進み、桜田門外の変と同年の万延元年9月、政挙公は内藤家に養子に入りました。

 雑談ですが、政挙公は嘉永3年の生まれですが、幕府への届けは年齢を四つ水増しするなどしています。内藤家の養子となった年齢も実年齢と異なっています。成人した男性として間違いないということ、若い時から成熟されていたことなどが考えられます。

 政挙公に関する資料を見る際、時々、年齢が合わないと思われる場合があるかもしれませんが、4歳足した数字で書かれている資料があったり、実年齢で記されている資料があったりということで、少し年齢が異なることになります。

 寛次郎という名で内藤家の養子になりましたが、寛次郎は通常の通り名で、当時はさらにその下に特別な時だけに使う名前を持っていました。その名前が政挙と命名されたのが、養子となった万延元年9月2日から約1カ月後の9月29日です。

 政挙の名は「中庸」という儒教の書物から引用した言葉です。中国の魯の哀公から政治について問われた孔子が、「いかに人材を用いるかが大事である」と述べた一節の中にあり、政挙公は明治に入り教育に力を入れるなど、その名にふさわしい活動に取り組んでいくことになります。

 政挙と命名され2年後の文久2(1862)年、井伊家との縁がある内藤家15代当主・政義公が、朝廷と幕府の関係が難しい時期に自分が藩主では都合が悪いということで隠居し、政挙公が16代藩主になります。数え年13歳で、明治へと向かう激動の時代を乗り越えていくことになります。

 明治4(1871)年になると、廃藩置県で全国の大名が東京に集められました。これは、大名家を地域に置いたままだと力を持ち、政府に反乱を起こす危険があるためで、政挙公も仕方なく東京に転居し、明治天皇のそばで活躍していますが、その間も延岡のことを気に掛けています。

 明治6(1873)年には、延陵社学という後の亮天社につながる中学校を建設し、運営するなど人材育成に取り組みます。しかし、東京から延岡に思いをはせても、もっと地元を知りたい気持ちが強くなります。そんな中、明治20(1887)年には、地域への帰還を許可する通達が出ることになります。

 大名の多くは江戸で生まれ育っているので、地元に帰る大名は少ないですが、政挙公は延岡の発展という思いから、明治23(1890)年3月4日に延岡への転居願を宮内大臣に提出しています。転居願からは、延岡の発展に尽くすという非常に強い決意がにじみ出ています。

 願いはすぐに聞き届けられ、明治23(1890)年7月31日には、旧図書館跡の義理の弟の屋敷に入り、約2年余りの時間をかけて現在の内藤記念館の建っている西ノ丸跡地に邸宅を構え、より地域の発展への事業をまい進していくことになります。

 功績のすべてを紹介できませんが、明治28(1895)年には、江戸時代から開発していた日平銅山の産出が振るわない中で、笠原鷲太郎氏という人材を登用して活発な産業を育成。同43(1910)年には銅山から出てきた電気をもとに、延岡電気所を開業するなどしています。

 こうした中、多くの功績を残す政挙公を顕彰したいという気持ちで建てられたのが、内藤政挙公の銅像です。建立に当たっては頌(しょう)徳会が大正5(1916)年に結成されました。1万5256円2銭5厘の寄付金が寄せられるなど、多くの人々の強い思いで建てられています。

 功績を後世に伝えることはもとより、政挙公の地域発展に尽くすという崇高な志を受け継ぐために銅像を建立したことが、建設に関する当時の資料にあります。また、昭和2(1927)年に政挙公が永眠された後、十三回忌となる同14(1939)年には銅像の脇に頌徳碑が建てられました。

 第2次大戦の戦局悪化に伴う金属回収で、国に銅像を供出しますが、そんな中でも姿だけはとどめておきたいと、昭和19(1944)年1月1日に2代目セメント像を建立。同60(1985)年11月には、現在の3代目銅像の除幕式が行われています。

 銅像は、延岡の発展に尽くした政挙公のご功績をたたえ、伝えるとともに、崇高な志を学び、受け継いでいくために建立したものであること、延岡が偉大な先人の歩みの上に成り立っている歴史ある都市であることを講話を通じて感じていただければ幸いです。

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