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槇峰鉱山−閉山50周年記念し慰霊祭

本紙掲載日:2016-11-24
1面
槇峰鉱山閉山50周年記念式典の参加者。階段の上に山神社の本殿がある

当時の従業員家族ら約30人−往事をしのぶ

 延岡市北方町と日之影町にまたがる旧槇峰鉱山の閉山50周年記念慰霊祭が11月23日、同市北方町美々地で行われた。操業していた三菱鉱業(現三菱マテリアル)の当時の従業員やその家族ら約30人が、往事をしのび、玉串をささげて物故者の霊を慰めた。主催は同実行委員会(松井定夫会長、佐藤司顧問)。

 槙峰鉱山の閉山は昭和42年2月。慰霊祭は30周年以来20年ぶり。発起人は最後の鉱山長だった故・城戸満氏の次男で美々地在住の康雄さん(62)。鉱山には中国人強制労働の背景もあり、「戦争は二度としてはいけないという思いと、鉱山がなくなって廃れてしまった美々地の復興に」と満氏と伴に働いた佐藤さん(87)=大阪府=や松井さん(89)=日之影町=に相談して実現した。

 慰霊祭は鉱石がご神体の山神社で行われ、出席者は自己紹介や思い出話を披露し、玉串をささげた。

 松井さんは「鉱山のおかげでこの年まで生きられている。自分の子どもにも『鉱山のおかげでお前たちを大学まで行かせることができた。それを忘れてはいけない』と常々言っている。後世に伝えておかないといけないことはたくさんある」と鉱山への思いをかみしめた。

 この後、一行は地元の吉祥寺の法要にも同席し供養。選鉱場など〃青春の地〃を回り、当時を懐かしみ、同志の絆を確認し合った。

 槇峰鉱山の最盛期には約1500人が働いたという。社宅があった槇峰地区などには5000人以上が住んでいた時期もあり、その数は旧北方町の総人口の約半分。映画館や商店街、小中学校もあり、一帯は活気にあふれていた。

 佐藤さんは「ここで暮らしていた人たちはみんな心が温かかった。この地にいい印象を持っている人が多く、定年退職したら槇峰に帰りたいという人も多かった」と誇る一方で、閉山後の人の流出で変わり果ててしまった〃ふるさと〃の姿に「昔と違って寂しい感じがする。この機会にあちこち歩いて回りたい」と話した。

 康雄さんは「ここの人たちはみんな家族よりも家族だった。第一線で活躍していた人たちもどんどん高齢者になり、語れる人が少なくなっていく。今後も5年ごとにこういった記念式をやっていき、歴史を紡いでいきたい」と〃二世〃としての責任、役割を再認識していた。

 昭和47(1972)年6月発行の北方町史によると、槙峰鉱山は江戸時代の明暦3(1657)年ごろに発見され、幕末の元治元(1864)年から延岡藩主内藤家が稼業を開始。明治22(1889)年に三菱鉱業の経営となってから一気に本格化。閉山前の坑道は延長72キロ、鉱区は計211万7400坪にも及んだ。採鉱量のピークは昭和18(1943)年に記録した23万トン。以降は次第に減少。昭和42(1967)年に閉山となった。

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