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神武天皇は延岡、日向にいた

本紙掲載日:2016-08-31
3面
神武歌謡を検証。神武が実在し、日向にいたと講演する宮照雄さん
宮照雄さんの講演会「神武東征・神武歌謡は日向市の古代を物語る」
「天照皇大神宮」の祈願札が出て来たいきさつを話す大御神社新名宮司
大御神社一帯にあるさざれ石

伊勢・志摩−オリジナルは伊勢ケ浜、細島

◆三重大学名誉教授−宮照雄さん日向で講演

 神武天皇は実在し、延岡、日向で育ち東征に向かった。それは記紀に残る神武歌謡の描写を検証すると、はっきりと解明できる。三重県の伊勢・志摩のオリジナルはこの宮崎県北、日向の伊勢ケ浜、細島だ−−。県北にとって願ってもない説を唱える三重大学名誉教授(水産学部)・宮照雄さんの講演会「神武東征・神武歌謡は日向市の古代を物語る」が27日、日向市中央公民館ホールであった。翌28日は、日向市内の大御神社、美々津を巡るツアーもあり、記紀が記述する神武の痕跡は日向にあることを検証した。主催はひゅうがお舟出プロジェクト推進委員会。

 6月にあった延岡市での講演会に続く第2弾。前回は、狗奴国王の息子だったニニギが天下ったのは高千穂で、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と出会った笠沙(かささ)の岬は延岡の愛宕山。古事記に「韓国(からくに)」とあるのは、人口の少ない「空」という意味であり、比定地は吾田(縣)、今の延岡市。ニニギは延岡の天下町にあった高千穂宮を本拠地にし、ひ孫の神武は、高千穂宮や日向で育った−ことを解き明かした。

 宮さんは水族病理学が専門。文系学者と違った理系学者の視点から記紀の解読、解明を続けている。今回も、理系学者として神武歌謡の文言を分析し、神武は県北で過ごしていたと説明した。

 神武歌謡とは記紀に残る神武が詠んだとされる謡。東征した大和国で謡った「神風の伊勢の海の生石(おいし)に這(は)ひもとほろふ細螺(しただみ=小さな巻き貝のこと)の這(は)ひもとほり撃ちしてやまむ」を取り上げた。

 謡そのものについて、通説は、「神武の時代に伊勢神宮は存在しない。したがってこの謡は後世の創作」(文学者・直木孝次郎京大教授)。「生石」は、古事記の表記は「意斐志(おひし)」、日本書紀は「於費異之(おひいし)」。「古事記伝」を表した本居宣長をはじめ、これまでの文系学者は「大石」と解釈している。

 別の謡。「宇陀(うだ)の高城(たかぎ)に鴫(しぎ)わな張る我が待つや鴫は障(さや)らずいすくわし久治良(くじら)障(さや)る…」。これは大和で敵対する兄宇迦斯(うえかし)が自ら仕掛けた罠にはまったとする謡。

 この「久治良」を通説ではクジラのはずはないと、鳥の「鷹」を充てて「鷹(くじ)ら」とした。

 こうした解釈のように、これまでの学説は神武東征は記紀の編者による絵空事だとした。また、猿田彦が突然、三重県に移動するなど、場所の設定にも、謡にも矛盾が多く、東征は史実ではないとする。かりに東征があったとしても、つじつまの合うところだけを採用してきた。


◇意斐志」とははさざれ石のこと−クジラを見ていた若き日の神武

 これに水産学に詳しい宮さんは猛反論する。

 延岡で育った若き日の神武は伊勢ケ浜で細螺を見ていた。クジラも見ていたのだと。

 「神風」の通説は強風、疾風としているが、宮さんは、「伊勢ケ浜の海人の漁に好適な陸からの風が『神風』」とみる。風が強く波が荒いと巻き貝は岩場をはい回ることはない。神武は、陸風で波が穏やかになった岩場に巻き貝がはい回っていた光景を見たことがあったから詠んだんだと。

 さらに、「生石」とは、大きな石ではなく、「生いたつ石」「生長する石」。つまりさざれ石、「礫岩(れきがん)」のこと。くしくも伊勢ケ浜の大御神社はさざれ石の宝庫であり、広範囲にある。宮さんは、この説を立てたときは伊勢ケ浜にさざれ石があることは知らなかった。存在を知ったときにはびっくりしたと述べている。

 「久治良」についても、宮さんは取って付けたような「鷹(たか)」ではなく、そのままクジラであるとみる。神武は細島沖でクジラ漁を経験しており、謡の続きは鯨肉を分配する様子を表現していると主張する。

 細島の鉾島神社の由緒には、枇榔島付近でクジラを、神武は持っていた鉾(ほこ)で突いたとあり、神武は自身の実体験に基づいて謡っているとする。これに関連して、大御神社には、「大クジラを退治された御鉾を立てられたことから鉾島と呼ばれ、後に細島と呼ばれるようになった」との由緒も残る。

◇伊勢は日向、すっきり解釈

 つまり、従来の通説では三重県の伊勢とするから、苦しい解釈になる。日向の伊勢とするとすんなりとすべてが解釈できるとし、「五十鈴川、伊勢・志摩のオリジナルは宮崎県北」と断言した。

 伊勢神宮を三重県に置いたのは宮さんによると、垂仁天皇の皇女倭姫(やまとひめ)とみる。神武が青春時代を過ごした日向の伊勢と同じような場所を探して、天照大神を鎮めたためというのだ。

 また、神武が美々津から東征に出立したのは、耳川が天然の良港であり、造船に必要な木材を得るのに適切な場所だったため。「神武は間違いなく、美々津までは来ていた」と言い切った。

◇大御神社、実は「天照皇大神宮」−伊勢神宮の内宮と同じ名だった

 翌28日は、現地ツアー。講演会を聞いた約50人が参加し、宮さんと共に伊勢ケ浜、大御神社、美々津を巡った。

 大御神社では、新名光明宮司がマイクを手に説明。「平成11年に国登録有形文化財指定される前に、文化庁から言われて、神社屋根裏を見たところ、『天照皇大神宮』と書かれた祈願札が出て来た。つまり、200年前までは大御神社ではなく、そう呼ばれていた。今、天照皇大神宮と呼ばれているのは伊勢神宮内宮だけです。これにはびっくりしました」と話し、宮説をバックアップした。

 このあと、神社の祖霊館で宮さんのミニ講演。霧島の高千穂との違いなどについて説明した。


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