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「神話は日本の古代史を物語る」

本紙掲載日:2016-07-05
3面
講演する宮崎照雄さん

三重大学名誉教授・宮照雄さん講演会

◆天孫降臨から神武東征まで舞台は間違いなくこの県北

 天孫ニニギノミコトが降り立ったのはこの県北の高千穂。神武東征までの舞台はこの高千穂、延岡、日向に間違いない−−。そう主張する三重大学名誉教授・宮照雄さんの講演会がこのほど、延岡総合文化センター小ホールであった。テーマは「神話は日本の古代史を物語る」。記紀神話のストーリーを論考しながら、この延岡、日向にいたとの証拠を挙げて説明。詰めかけた人たちも、宮さんによる神話の謎解きに納得した表情で聞き入った。主催は、スピリチュアルひむか観光協議会。神話や伝説を観光資源に活用しようと企画した。

◆理系学者の視点からアプローチ

 宮さんは、三重大学生物資源学部の元教授。古代史解明を理系学者の視点から読み解いてみたいと、数年前から記紀神話の論考に取り組んだ。講演ではこれまでの文系学者と違ったアプローチで神話、古代史に迫った−−。

 天孫降臨でニニギノミコト(以下ニニギ)は高千穂に降り立ち、笠沙(かささ)の岬に向かう。宮崎さんは、降り立った高千穂は今の高千穂であり、笠沙の岬はそのころ海の中に突き出ていた愛宕山=笠沙山のこと。

 この笠沙の岬でニニギは、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)に出会い求婚する。木花咲耶姫は「神吾田津姫」が正しい。「阿多隼人の姫」などと表記し、姫の出身を「阿多」、つまり鹿児島県南さつま市付近とする説もあるが、それは間違い。

 なぜなら、木花咲耶姫の父・大山津見は五ケ瀬川流域の鉱石を採取する部族の長だった。姉の磐長姫(いわながひめ)に与えた銀鏡(しろみ)がその証拠。南さつま周辺に鉱山はなく、銀鏡神話が生まれる下地はない。間違いなく木花咲耶姫は延岡の姫のことだ。阿多のストーリーは山幸彦(ニニギの息子)との権力闘争に敗れた兄の海幸彦がのちに伝播(でんぱ)させたとみる。

◆記紀の地名、県北に整合

 ニニギは天下りの際、猿田彦に案内された。猿田彦は三重県伊勢の原始太陽神であり、伊勢へ帰る。日本書紀でこのことを「伊勢之長田五十鈴川上」と書く。「上」は古来「南」のこと。門川の五十鈴川の「上」に伊勢ケ浜がある。笠沙の岬からそう遠くないところに伊勢はあるべきで三重県ではない。伊勢ケ浜のことだ。五十鈴川は三重県と宮崎県の2カ所しかない。笠沙の岬を愛宕山とすれば、記紀が描写する地名は延岡、日向の地名と無理なく整合する。つまり、伊勢の地名は東征後に日向の地名を再現したとみる。

 東征した神武の歌謡に「…伊勢の海の生石(おひいし)…」がある。「生いたつ石」は「生長する石」であり、「さざれ石」のこと。伊勢ケ浜にはさざれ石がある。

 クジラの謡もある。細島神社や大御神社の由緒に、東征の際に御鉾(みほこ)で大クジラを退治したとある。細島は退治したその御鉾を立てたことから鉾島−細島と呼ばれるようになったと。

 つまり、神武は若き日に伊勢ケ浜で暮らし、伊勢ケ浜で見聞きしたさざれ石、クジラのことを後に詠んだのだ。

◆ニニギが眠る可愛岳の麓

 通説で神武の3代前になるニニギについて−。ニニギは卑弥呼がいた時代の狗奴(くな)国の人。ある理由で国を離れることになる。

 「魏志倭人伝」によると、狗奴国は「女王国(邪馬台国)の境界の尽きるところにある奴国の南」に位置する。その場所は、菊池川流域にある山鹿市の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡のある所とみる。ニニギはここから「日向の高千穂の二上の峯(みね)に」移った。

 国を離れた理由は、狗奴国の王だったニニギの父、卑弥弓呼(ひみくこ)が魏や呉からの攻撃を恐れ、邪馬台国連合とそれ以上の戦闘を回避したかったから。そのために新天地を求めた。ニニギは卑弥弓呼の子である狗古智卑狗(くこちひこ)で菊池彦のことという。

 猿田彦に案内され愛宕山にたどり着いたニニギは、「この地は空(から、韓)国に向かい、笠沙の御前(みさき)に真来(まき)通りて…よき所」(古事記)と感嘆する。「空国」とは人口の少ない意。このころ日向の人口密度は低いことが分かっている。この「空国」に五ケ瀬川流域の平野には狗奴国の人たちが相次いで移住。その勢力を宮崎平野付近まで広げた。

 そして、ニニギと木花咲耶姫は可愛岳、あるいは山頂の奇岩を依り代(よりしろ、神霊が寄り付くもの)にして麓、今の陵墓参考地付近に葬られた。

◆卑弥呼殺害と降臨は同じ日

 卑弥呼が殺された時に皆既日食があったとされる。このころの皆既日食は2回、247年3月24日夕と248年9月5日朝。文献などから卑弥呼の死は朝。また、ニニギが降臨したときも日食があったと日向国風土記の逸文にはあり、その表現からニニギの天孫降臨も朝。つまり248年9月5日、卑弥呼が殺害されたまさにその日だったとみる。ちなみに宮崎さんは、「邪馬台国があったのは吉野ケ里あたり」とみる。

 宮崎さんはウエブで著書の「狗奴国私考・狗奴国の卑弥弓呼と邪馬台国の卑弥呼」を公開している。「講演の理解をさらに深めるためにこのウエブを参考にしてほしい」と話している。検索は「狗奴国私考」。



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