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日本工学発祥の地−今、霞が関コモンゲート

本紙掲載日:2016-01-01
6面
手前の低い建物が旧文科省庁舎。後方に見えるのが文科省などが入る霞が関コモンゲートの東館。旧庁舎には見学コースがあり、初代文部大臣森有礼が座った椅子も間近に見学でき、歴史を解説したパネルが展示されている
工部大学校阯のモニュメント。赤レンガは校舎の建物に使われていた
文科省横にある三年坂。左側は金融庁、標柱の右側は国税庁の入り口がある
国史跡・江戸城外堀跡「溜池櫓台(ためいけやぐらだい)」。内藤延岡藩上屋敷の南端に当たる。この付近に「新聞創刊の地」のモニュメントもあった。写真奥は外堀通りを挟んで西館と霞が関ビル
三年坂(写真左)を上り突き当たった所。写真右奥に首相官邸がある。付近はくぼ地になっている。かつてはため池があり、今の地名も「溜池」。池から外堀へは段差があり、滝のようなものすごい音がしていたという

東京虎ノ門・内藤延岡藩上屋敷

◆文科省、金融庁の入るビル街

 わが国の教育行政の心臓部といえば文部科学省だろう。所在地は東京都千代田区霞が関3丁目。周辺には中央官公庁が立ち並ぶ。この場所、もともとは内藤延岡藩の上屋敷のあった所である。明治になり、東京大学工学部の前身「工部大学校」が開校。昭和になって文部省の庁舎ができた。内藤家上屋敷のあった場所に明治期の殖産興業の礎となった学校ができ、「日本の工学発祥の地」とたたえられている。大正、昭和と工都として発展した延岡。まるでその未来を示していたかのようでもある。

 地上36階、高さ147メートル。日本初の超高層ビルと騒がれた霞ケ関ビルは昭和43(1968)年4月、上屋敷のあった場所にオープンした。当時、延岡の高校生は修学旅行で見学させられた名所だった。しかし、考えてみれば何のことはない、元はと言えば延岡由来の土地に行って、物珍しげにビルを見上げていたことになる。

 今、霞が関ビルの周囲にはもっと高いビルが並ぶ。旧文部省庁舎の後方に二つの高層ビル、中央合同庁舎第7号館・西館(地上38階、176メートル)と東館(地上33階、156メートル)だ。再開発され、平成19年に「霞が関コモンゲート」として完成した。官庁施設内に民間のオフィスを入居させるという初めての手法を取ったという。旧文部省庁舎に近い東館に文科省、文化庁、会計検査院。後方の西館に金融庁が入り、19階以上は民間会社が入居する。

 周辺は中央官庁が立ち並ぶ。金融庁の道路向かいに財務省、外務省、総務省、国土交通省、警視庁、江戸城内堀の桜田門へと続く。文科省、金融庁と財務省との間には坂道があり、これを「三年坂」と言う。

 坂道の途中、金融庁の玄関前に標柱がある。その一文。「三年坂は潮見坂の南に隣れり、霞が関と三年町の間の坂なり、坂をのぼればこれより栄螺尻(さざえしり)とす」「また、淡路坂ともいい、一にここを陶山が関という」と書かれている。地名については、付近にウグイスが多く「鶯谷(うぐいすだに)」とも言っていたという。「栄螺尻」の由来は、「裏霞が関と三年町の間、道路の盤曲するところをさざえしりと呼び、虎の御門より永田町に出る裏道なり。曲がり曲がりたる境の名なり」。
 
 なお、千代田区観光協会のHPには坂で転ぶと災いがあるとの俗説からその名が付いたとも書かれている。

 大名屋敷には「上」「中」「下」がある。虎ノ門の上屋敷には藩主が住み、中屋敷には隠居した藩主や世継ぎ、下屋敷はいろんな用途に用いられた。内藤家には、虎ノ門のほか、六本木ヒルズ近くに六本木屋敷、渋谷駅のそばに渋谷抱屋敷(かかえやしき)、墨田区本所にも抱屋敷を持っていた。

 屋敷に務める藩士には、参勤交代で延岡から来た「勤番」と江戸に定住する「定府(じょうふ)」がいた。延岡からやってきた勤番の藩士はどんな気持ちで屋敷勤めをしていたのだろうか。

 二つのビルを挟んで三年坂の反対側。外堀通りに面した所に「工部大学校阯(し)碑」と刻まれた赤レンガのモニュメントがひっそりと立っている。説明板に、当時の碑文を収録してあり、「日本の工学発祥の地」については、「此地ハ明治天皇の聖蹟ニシテ又実ニ我が国工学発祥の処ト為ス」とはっきりと書かれている。

 工部大学校の前身は工学寮。明治4(1871)年に工業教育機関として工部省内に設けられた。同10(1877)年、工部大学校と改称。工部省は同18(1885)年に逓信(ていしん)省と農商務省に分割・統合されたため、廃止となり、工部大学校は文部省に移管され、帝国大学令が出された翌年に帝国大学工科大学となった。

 ちなみに同6(1873)年生まれ、旭化成の創業者・野口遵は同29(1896)年に帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。工部大学校は、すでにこの場所からは移転していたようだが、のちに延岡新興の母と呼ばれた野口も学生時代には多少なりとも延岡と縁があったとは言えそうだ。

 赤レンガは、工部大学校の建物に使用されていたものだ。大正12(1923)年9月の関東大震災で倒壊したのを惜しみ、工部大学校出身者たちが、昭和14(1939)年にこの碑を建設した。

 工部大学校が移転後、敷地と建物は帝室博物館(宮内省所管の博物館の総称)、東京女学館などが使用。大震災後の昭和になって文部省が拠点を構えた。

 工部大学校から文科省と、上屋敷の跡地は一貫して教育関係に活用されてきた。ことのほか教育に熱心だった内藤家を思うと、上屋敷を明治政府に召し上げられたかいもあったというものだろう。(飯干謙三)

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